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妊娠徒然日記-善とか悪とか-

性善説と性悪説。本来の意味とはちょっと違うかもしれないのだけど,ここでは,人は生まれながらにして『善』か『悪』かという意味で論じたいと思う。

私は妊娠する前から性善説の立場だった。
だって生まれたばかりの赤ん坊は真っ白の状態だ。悪というのは,人が生きていく過程で身につけていくもののような気がしていた。
というか,生まれたての赤ん坊が真っ白の状態であるのであれば,善も悪もないのだから,生まれながらにして善ですらないようにも思える。
しかし,それでも,性善説と性悪説どちらかと言われれば,私は性善説だった。

ただ,今こうやって妊娠前の自分を思い出して書いてみると,なぜ性善説だったのかちゃんとした理由はなかったことに気付く。
今回は,そんな私が妊娠してみて『やっぱり性善説だよなぁ』と思った話を書きたいと思う。

私は,妊娠を機に起こった私のコペルニクス的転回でも何度も書いたように,とにかくお腹の中の息子が愛おしくてたまらない。胎動を感じるたびに何とも言えない幸せな気持ちと愛おしさが込み上げてきて,思わず笑ってしまう。エコー写真を見ながら,この子がお腹の中にいるのかぁ…と思うと,もういてもたってもいられない愛おしさが溢れ出してきて,何かをギュウッと掴みたくなる。息子が生まれた後のことを想像すると,そんな幸せな日々がこれから訪れるのか…と,信じられない気持ちすらしてくる。

息子に対する愛おしさは,私の中にこんな感情が眠っていたのかと驚かされたくらい,これまでの人生で一度も感じたことのない感情だ。
これまでの私のnoteでもいかに夫を愛しているかを図らずしも(本題ではないにもかかわらず)書いてきたのだが,夫への愛情ともまた違うのだ。

あぁ,きっとこれが『母性』というものなんだろうなぁ…と,生まれて初めて遭遇する感情を,これまた生まれて初めて遭遇する『母性』なのだと気付かされるのだ。

可愛くてたまらなくて,愛おしくてたまらなくて,同時に満ち足りた気持ちにしてくれて,そして,全力で守りたいと思わずにはいられないような気持ち。

つわりで人生最大の苦しみを味わったって,マタニティブルーになって急に涙が止まらなくなったって,飲食が制限されたり,夜眠れなかったり,腰が痛かったり,心身共にどんなに辛くったって,それでも,お腹の中に赤ちゃんがいるということで全てを乗り越えられるし,むしろ,お腹の中に赤ちゃんがいる幸せに比べれば,そんな辛さは大したことないことにすら思えてしまうのだ。

私は自分が特別な母親だとはちっとも思えないから,きっと世の母親というものはみんなそうなんだと思う。

そう思ったとき,どんな人間も,みんなこうやってその母親のお腹の中で十月十日大切に大切に育てられてきているのだ。

そして,生まれてからも,母親や父親,祖父母などたくさんの人に,たくさんの愛情を注がれて,大切に大切に育てられているはずだ。

もしかするとそんな愛情なんて受けた覚えがないという人もいるかもしれない。しかし,その人が大きくなっている以上,誰かが育ててくれたということだけは事実だ。

そんなことを考えていると,どんな凶悪犯にだって母親がいて,その母親は,その凶悪犯(もちろんその頃はまだ凶悪犯ではないが)をお腹の中でたくさんの愛情を持って大切に育てているはずなのだ。そうやって育てられて,十月十日経って,ようやく生まれてきて,その瞬間から『悪』だなんて,そんなことはあり得るはずがないと思わざるを得ないのだ。

そうしたとき,やっぱり誰もが生まれたときは『善』なのに違いないと思う。生んだ母親はもちろん,たくさんの善によってこの世界に生まれてきたわけだから。

では,なぜこの世界に『悪』が存在してしまうのか。どうやったら我が子を『善』のまま育てられて,善なる人間にすることができるのか。

私の上記の考え方だと,周りの人間が愛を持って育てさえすれば良い,という結論が導かれてしまう。そうだとすれば,凶悪犯は周りの人間の愛情が不足していたせいでそうなったのか?いや,それは違うだろう。

ただ,私個人の話でいえば,両親や祖父母などに愛情を持って育てられたことは,私が生きていくうえで大きな影響を及ぼしたことは間違いない。
私は,これまでずっと「祖父母のお墓参りを堂々とできなくなるようなことはしない。」と思って生きてきた。祖父母に天国から見られてまずいことはしない,祖父母に話せないようなことはしない,そう思うことで,襟を正して生きてこれたように思う。
たとえば,既婚者と付き合っている友人がいたのだが,そんなとき私は,もし自分が既婚者と付き合っているなんて祖父母が知ったら悲しむに違いないし,そんなことをしておきながら,お墓参りなんてできなくなってしまう,と思った。もちろん,祖父母のことがなくても,私は人の不幸のうえに成り立つ幸せなどないと思っているし,不倫など絶対にしないが,それでも,既婚者と付き合っている友人はどんな顔してお墓参りするんだろうと考えたりもしたし,私にとって祖父母の存在というのはとても大きいものだった。
また,私は,私が何をしても,きっと両親は私の味方でいてくれると確信を持って生きてきた。だからこそ,そんな両親を悲しませたくない,両親に少しでも喜んでもらいたいと思って,愚直に生きてこれた。両親に大事に育てられたからこそ,私自身も自分を大事にできたんだと思う。自分のことを大切に思ってくれている両親のためにも生きなければ,と生きる意味の1つでもあった。
こんなふうに,私はやっぱり両親や祖父母などに愛情を持って育てられたことで,ここまで真っ当に生きてこられたのだと思う。

もちろん,愛情を持って育てたところで,悪に染まってしまう人間もいるだろうし,一概には言えないが,それでも,ありったけの愛情をたっぷり注いで育てることはきっと意味のあることだと思う。

まだまだ生まれてもないからか,子育てについては考えたところで結論が出るどころか,余計にいろいろと分からなくなってしまう。でも,ああでもない,こうでもない,と悩みながら,その過程で私も親としてほんの少しずつでも成長していけたらと思う。

ありったけの愛情をたっぷりと注いで育てることでそれが善なる人になるかどうかは分からないとしても,それでも,私は息子に私の持てる愛情の全てを注いで育てていきたいと思う。

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