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境界線を融かす。

 第九十八回の芥川龍之介賞作品である池澤夏樹の小説「スティル・ライフ」の冒頭に、次のような文章が登場する。

 君は自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はきみのことを考えていないかもしれない。でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼吸と調和をはかることだ。たとえば、星を見るとかして。

 芸術表現の世界において、スティル・ライフという言葉は「静止画」を意味する。もし、引用の文章で池澤が示唆するように「スティル・ライフ」という言葉が「二つの世界の境界線が融和した生活」を意味するのであれば、そして同時に、その言葉が「静物(せいぶつ)」というニュアンスを含意するものなのであれば、動きのない静止写を通して何かを表現すること(即ち「写真(スティル)」を通して何かを表現すること)は、ファインダー越しに見える「境界線の存在しない調和の取れた世界を表現すること」に等しいのではないだろうか。そんなことをふと思う。

 私たちは、実体のある(と考えられている)「A」と「B」とを明確に区別し、その間に「境界線」を引こうとする。人間と動物、人工と自然、男性と女性、大人と子供、先進国と途上国、西洋と東洋、キリスト教とイスラム教、民主主義と社会主義 ...。ただ、果たして本当にその「境界線」なるものは実在するのだろうか。

 例えば、私は「(高い理性と知性を備えた)人間」であるが、時に「(情動的で非合理的な行動を取ってしまう)動物」的存在でもある。また「(正義や規範を重んじるという側面において)男性的」であるが、同時に「(調和や情緒に強く心を惹かれる)女性的」な感性も持ち備えている。

 より大きな世界に目を向けてみよう。ウォーラステイン(Wallerstein)が唱えた世界システム論(World Systems Theory)は、私たちが生きる社会が、複数の文化の分業体制により織り成されるシステムであることを明らかにした。世界を「先進国」と「途上国」という二項対立で区分しようとする単線的な発達段階論に対する批判的な眼差しが、彼の論考の中核にある。

 アマルティア・セン(Amartya Sen)は、人のアイデンティティティが複数性(Plurality)を持つものであることを指摘し(例えば,私は「日本人」の「男性」ではあるが、同時に「大学院で研究」をする「銭湯を巡るのが好き」な「心優しいお兄さん(?)」でもある)宗教に代表される画一的なイデオロギーに自己を「単一帰属」させようとする在り方に批判を加えている。

 一見「境界線」が引かれているものだらけに思えてしまう私たちの社会だが、その周りにあるものをよく観察すれば、実際にはそれらが淡く溶け合い、ひとつの居心地よい完成形をなしていることに気づけるはずだ。そして、写真(スティル)は、私たちの身の回りにある小さな気付きを切り取り、世の中に調和と均衡の取れた「物語」を表現していく為の手段として、大きな力を持つはずのものなのであると思うのだ。

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