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ICUC#015(篭って週間#009)2020.5.24【自分はかけがえのない存在か?生きることとは世界を翻訳すること】

角田陽一郎さん主催【知的好奇心向上委員会 ICUC】
私用のメモ。

今日の推薦図書
『翻訳夜話』村上春樹、柴田元幸(文春新書)

YouTube(ICUC内で一定基準をクリアすると一般公開されます)
#009「自分はかけがえのない存在か?生きることとは世界を翻訳すること」
ネットにからめとられた今の世界は新しく創られた世界であり、その世界は、「はじめに言葉=ロゴスありき」なのです。
そんな世界で僕たちが生きることは、翻訳行為なのじゃないかと思います。
ぜひご覧ください!

参考ブログ「君の発見は世界の常識だ」

知的好奇心向上委員会 ICUC[CAMPFIRE]

ICUC note

動画の内容
・生きた証というアーカイブをたくさん残せる時代
・今、メモリアル感と共に無人島暮らしの良さを発見した
・繊細なアウトプットと強靭な宣伝行為
・か弱い言葉は鈍器
・今日は推薦図書の話を多めに
 人はかけがえが"ある"
 人の翻訳はかけがえがない
私のメモという名の感想

生きた証というアーカイブをたくさん残せる時代

このYouTubeは5/24以降見るわけで、未来のことを話すと、後で聞くとちょっと聞く意味がなくなるなと思いつつ。
テレビはライブで、YouTubeはアーカイブ。テレビはその一回限りのことにCMを出すことに価値があり、視聴率で戦う理由だったけど、YouTubeはコンテンツが蓄積(アーカイブ)されていくことに意味があるので、今思っていることを言っておきながら、後から見たときに"なるほど"となった方がいい。
コロナが終わるわけではないけど、コロナ篭りが明ける直前に、その気持ちを今言っておくのは大事だと思う。

この話はどこかで言ったか?書いたか?最近そういうのが分からなくなるけど、作家さんもきっと、どこで何言った分からなくなると思う。それをちゃんとアーカイブしておかないと分からなくなる。

今、メモリアル感と共に
無人島暮らしの良さを発見した

5月病は4月に新しい仕事や学校が始まってGWで一回ストップした後、嫌になること。いざ緊急事態宣言が終わるとなると、長い休み(自粛)が明けるわけで…自分的にはやばい。大五月病!外界に出たくないなーと思ってる。

FBがその機能の一つとして3年前の自分の投稿を知らせてきて、再考する。

参考ブログ👆🏻「君の発見は世界の常識だ」

自分が発見したことをよくよく調べてみると、すでに誰かが発見してることだったというのは死ぬほどあって、仮にその人の能力が優秀だったとすると、それは勿体ないことだ思う。
これを無人島で例える。
優秀な人が無人島で生活し、あるとき掛け算を発見する。無人島から今の世界に戻ってくると、掛け算は小学校2年で習うもの。その人の天才性を掛け算の発見に使うのは勿体ないなと今でも思うんだけど、篭ってる今はそれもいいと思う。

自分の思ったことが世界にコミットした方がいいのかどうか。名を成すとか成功するとか有名になるとか考えることはいいんだけど、そうじゃなきゃいけないという強迫観念を持つのはいいのだろうか?
この投稿を書いたとき、退職してフリーになった5月には、無人島内での発見はいいと思えなかったし、フリーになった自分を鼓舞する意味もあったのかも知れない。

世に出すこと。インプットしたものをアウトプットした方が良くて、どうせ出すなら人に見られた方がいいし、それが人類の集合知だと思う。自分の思ったことを誰かに支持されるかされないか、20歳のころはそんなことばかり気にしてたけど、8/17に50歳になる「年齢のメモリアル感」を持ちつつ、自分の人生なんて大した人生じゃなかったと、ちょっと思っている。

繊細なアウトプットと強靭な宣伝行為

大学時代に演劇をやってたとき、友達にチケットを渡すのが嫌で嫌で仕方なかった。だって知り合いは断れない訳で、それが年に4回となるとその友人を4回も誘わなきゃならない。TBS時代も部下を飲み会に誘えないし、ICUCでも飲み会やZOOMやりましょうと言いにくいのは、そんな思いがあるから。僕なんかと話したいか?と、昔から思ってる。
((1000%思ってる人はここにいますと声を大にして言います))

自我としては自分の思ったこと作ったことを見てほしいと思いながらも、誘いたくない、向こうから来てほしいというジレンマがすごく嫌だった。それをずっと持っていて、その解決策の一つとしてとしてテレビ局に入った。自分が宣伝することを気にしなくていいから、ピュアなものを作れる安心感があった。
それが今はネット社会となり、個人で宣伝しなければならなくて。

「自分の作品を育てないで、果たしてクリエイターなのか?」
その言説は正しすぎて言葉にとげがあるほどで、それは自分が学生時代に思った「自分を過度に宣伝することのさもしさみたいなもの」で、クリエイターが………
クリエイターっていうのも、そもそもおかしい!
クリエイターって神様という意味なので。僕はクリエイターということをやめようかなと思っていて。
作り手、聞き手、受け手。

作り手として作りたいと思う気持ちはフラジャイル、弱い感情で、その弱く壊れやすい感情で作るものをいざ宣伝するときには強い気持ちで外界に自分を出さなければいけない。篭ってる中で、もう一度外界に出て、強い気持ちで出なければいけない嫌悪感。
強い人はいいけど。
でも強く見える人も見えるだけかもしれない。

か弱い言葉は鈍器

その人の中の強い弱いのグラデーションの中で生きている。強いときはいいけど、弱いときはどうしたらいいのか?どう生きていけばいいのかというのが僕の中に前提としてあって、僕は僕の弱い部分を肯定してほしいと思うから、他人の弱い部分を肯定したい。

とは言え、人が自分の弱い部分を表現する場合、弱さを妬み、恨み、僻(ひが)み、嫉(そね)みみたいなもので表現してしまうことは多い。いじけにも見えるし、エンビィ(羨み)以外の表現もあるだろうけど。あとは陽の光の強さに自分は耐えられないという詩を書くしかないか(笑)?

それを表現してる人、呟いてる人は自分の弱さを出してるだけでも、それを受けた方はたまらない。私弱いんですよと言える強さ。言葉の凶器、重さがズシンッとくる。
匿名アカウントで汚い言葉を有名人に投げかけることで悲しい事件が今までもたくさんあったけど、一方で有名人の方だってそういった言葉を投げかけている。有名という強さを持ちながら。

言葉ってすごく重い。
新約聖書に「初めに言葉ありき」と古典ギリシャ語で書かれている。言葉とはロゴス。ワードではなく、論理・心理・理性といった意味がある。世界はロゴスで出来ているというのがギリシャ的な考え方で、それがキリスト教の考え方になり、西洋文明になり、近代文明になり、ロゴスの強さみたいなものがあったから世界に広がった。

喧嘩したときに論理的に話すことしか解決策がないというのは、ロゴスは最終兵器で最強兵器ということ。
だから自分が思ったことを弱く表現しても、言葉にした瞬間、自動的にロゴスという強さをアーマードされた言葉になり、世界を飛び回ってしまう。

ネット社会という新しい世界がここ20年程度で創造され、ネットという世界でも、初めに言葉ありきと新約聖書で言われてる通りに繰り返されている。西暦がちょうど2000年経って、さらに重くのしかかってきてるのが、僕らの世界なんだなと思う。

今日は推薦図書の話を多めに
 人はかけがえが"ある"
 人の翻訳はかけがえがない

今日も話そうと思ったことを話し、話すと思ってなかったことも話し、話し足りないことを時間を超えて話すこともできるけどそれはしない。いつも本の紹介が最後3分とかになるので、ここで今日の推薦図書。全然難しくなくてすごくお勧め。

柴田さんは昨晩zoomの朗読会があって見たら、すごくよかった。アメリカの短編小説を翻訳されて、その翻訳者が朗読する。朗読はうまい人がやった方がいいと言われるけど、声のプロじゃない人の朗読がすごくいい。自分が翻訳したロゴスを発してる責任みたいなものを感じる。その世界をどう解釈したかを世界の構成要素であるキャラクターの表現ではなく、作品の世界観、神様というクリエイター目線での解釈になるから。

この本は「翻訳なんてAIでできるし、クリエイターは本を書いた人の方だ」という思いを崩してくれる。この事象をどう翻訳するか、翻訳するときにどういうことを考えるかということが大事。僕らが考えるすべてのことは、自分のロゴスで翻訳してる。生きるということは、あらゆる行為は、翻訳であると気づかせてくれる。

村上春樹はこの本の中で自分はかけがえの"ある"人だという。その理由は村上春樹がこの世から居なくなっても、世界は困らないから。
会社員で考えると想像しやすい。会社というのもはかけがえの"ある"人で構成されないと会社が存続できない。フリーのクリエイターとして名を成している人でも、やはりかけがえの"ある"人でしかない。
しかし唯一この作品をこう翻訳したという行為だけが、かけがえが"ない"と思える。きっと彼はそう思うから生きていけているんだと思う。かけがえが"ある"という絶望の中で、翻訳というかけがえがないと感じるものをやっているから。

なので、自分にとっての"かけがえのないものは何か"を見つけるということが人生なのではないかな?と思いました。


私のメモ

篭ることで気分が下がったり上がったり色々あったけど、結果として角田さんは大五月病を発症し始めた。知的好奇心を得たいがために外を飛び回っていたけど、いざ篭らざるを得ない状況になってしまったら、自前の知的好奇心でもって、篭りつつ知的好奇心を補充できる術を見つけてしまった。

ときどき醸し出してた(と思う)「この人は本来、篭ってるの好きなんだろうな風味」を、自分で一品調理してみて、美味しいとわかってしまったみたいだ。できる人にはそれはそれで苦労があって、それは私の苦労よりという比較はできない。すごい人だと感じようが、人はやはり人だと思わせてくれる。

「私は弱い」と言う人は弱いくせにそう言うのではなく、弱さから這い上がろうと「必死だから言える状態にある(そういう部分がある)」と思う。
ローギアなので人に当たれば鈍器になるし、必死だから周りを気にする余裕は無い。弱さの部分か思考の部分か、何か人に認めてもらいたい部分があるから、人のそばに寄ったり、目立つ行為もする。振り返るとそれは黒歴史と呼ばれる(笑)
這い上がる人が這い上がりやすい、弱いと宣言する方法。人を傷つけないネット社会での宣言手順みたいなのが確立されたらいいな。

世界のどこかで私がいちキャラクターとして生きていて、出会った事象でキャラクターが形成され、そのキャラが出会った事象を表現する行為、呟き話し方や時間の使い方も、すべての行為が世界や事象の翻訳行為であり、その行為がまたキャラを形成していくのだろうなと思う。
例えば私の夫は輪郭がぼやけて見えにくいキャラだけど、それはアウトプットが少ないか私には見えにくいだけで、翻訳行為が少ないということではないのかもしれない。

どんな輪郭を持つキャラであろうとも、世界を構成する一要素でしかないから、どんな人も"ほぼ"平等にかけがえが"ある"。天才的な特異な輪郭を持ったキャラだけはかけがえがないように見えるけど、もしその人がいなければ、他の人がそんなすごい輪郭を形成するのでは?と思うと、どんな人も平等にかけがえが"ある"と思う。人は地球のいち細胞と言う人もいるしね。

そう思えば、できないこと、追いつけないことを、そんなに落ち込まなくていい。自分は自分でしかないということで、一周回って人はかけがえのない存在。
それでも自分の持てる最大限の知的好奇心を持って生きる努力をしないと、一周回ってすぐ交換できる、小さな小さな消耗部品で終わってしまう。

ICUCは一人一人の知的好奇心が
くすぐられるような
さまざまな「ヒト・モノ・コト」を
皆で持ち寄って
話して聞いて調べて楽しんで
自分の知的好奇心を
アップデートしちゃおう
って集まりです。
(by 角田さん)

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