【短編小説】光の花
踏みしめるべき大地はそこになく、カファルは一瞬にして沢の手前まで転がり落ちていた。
「痛っ…」
体の至る所を打った。
やっとの事で上体を起こし、立ち上がろうと出した右足首に激痛が走った。
ひどい捻挫だ。どんどん腫れてきている。
いずれ歩くことすらままならなくなるに違いない。
絶望に心を侵されていくその目の前に鉤のような手が差し伸べられた。
国境の町―エウィンに辿り着いたカファルはまず最初に宿を探した。
教授は異国人を受け入れている宿は一軒しかないはずだから行けばわかると言っていたが、その言葉に偽りはなかった。
異国の文字で埋め尽くされた看板―〈風の花束〉という名に似つかわしくない重々しい木製のドアを開けるとロビーを見渡すまでもなく待ち合わせた相手の姿は向こうから視界に飛び込んできた。
窓からの陽光を反射する無骨な外殻に覆われた体躯。一本の角が生えた頭部が滑るようにこちらを向いた。
お泊りですかと声をかけようとする宿屋の主人を制し、カファルは覚えたてのレスティナンの公用手話を使い話しかけた。
『カファルだ。ツァーン・アカデミアの』
キシキシと弦楽器のような音で一節のメロディがレスティナン人の体から発せられた。
彼らの言語だ。
その複雑さと音域の広さのため彼らの間でしか使われる事はない。
彼らとのコミュニケ―ケーションに手話は必須だった。
二対あるうちの上側―上方腕と呼ばれるその両腕が高速で動いた。
「速すぎて読めないよ」
カファルは手話でもっとゆっくりと伝えると角の両脇にある小さな触角がクルクルと動き、それから『リッ・キア』という手話が一言返った。
教授から聞かされていた名前に違いない。
初めて見るレスティナン人の姿を一言で言うならば巨大な甲虫だった。通気性を優先した衣服は体表面に呼吸に必要な器官がある彼ら独自の文化が生み出したデザインと聞いていた。
『リヒト・カーミレに詳しいと聞いた』
リッ・キアの宝石のような光沢を備えた四対の目が輝きを増したように見えた。
『光る花。この国で見つけられれば大きな成果だ』
リヒト・カーミレは白い舌状花と盛り上がった黄色い筒状花からなる小さな花で貴重な薬草だ。人の国がある領域での発見例は未だない。
それを困難にしている理由の一つは一般的に咲くカーミレの花と外見がそっくりで見分けがつかないことだ。リヒト・カーミレはその群生地に紛れて極希に咲くといわれている。
『情報は確かか?』
カファルは一瞬怯んだ。
ウォーラという村で効力が段違いのカーミレがあったという情報耳にして向かったのだがすでに現物は失われていた。それを採った場所がどうもグリオラスの森らしいというところまでは掴んでいた。
『随分、自信がないようだな』
「そ、そんなことはない」
カファルは思わず声にしてしまい、慌てて手話で伝え直す。
何故見抜かれたのだろう。顔には出ないタイプだ。今まで動揺しているところを指摘された事は一度もない。
『これを見てくれ』
カファルは荷の中から鉱石と小瓶を取り出し、ロビーの中央に据えられたテーブルの上に置いた。
その瞬間リッ・キアが再び美しい旋律を奏でた。何を口走ったのかはわからないが驚いているような気配は伝わった。クレチリ石を見たことがないのだろうか。
カファルは一見何も入っていないかのような小瓶の内側を撫で、その指を鉱石に擦り付ける。
たちまちそこから白い光が放たれた。
クレチリ石はリヒト・カーミレの薬効成分と反応して光を発し、よく行商人がその純度の確認に用いる。小瓶は効果が段違いだったという薬を容れてあったもので、使い終わってまだ洗っていないものを譲り受けたのだった。
『森の中で見つけたそうだ。そこへ一緒に向かってもらいたい』
リッ・キアは触角をクルクルと動かしている。
『では、行こう。ここの臭いは耐えがたい』
カファルはクンクンと周囲の臭いを嗅いでみたが特に気になるような臭いはどこにもなかった。
リッ・キアはヨロヨロと本当に苦しそうに立ち上がり弱々しい足取りで外に出ていく。
「もう行くのか。ちょっとは休ませてくれよ」
カファルは言葉が通じない事をいいことに堂々と不平をこぼしながら後に続く。
だが、リッ・キアの行く先は乗合馬車の待つ駅とはまるで見当違いの方向だった。
「どこに行く気だ!?」
カファルは大声で呼びとめる。会話には使えなくとも気を引くことはできる。リッ・キアが振り向く。
『字は読めるのだろう?』
『読めるがここは澱み過ぎていて無理だ』
澱むとはどういうことだろう。視界を遮るものは何一つない。快晴とまではいかないが天気は良い。
ここにきてカファルは何故教授が国境までわざわざ自分を迎えにいかせたのかわかり始めた。
とにかく手間がかかる。
言葉の問題、それから身長が子供ほどの高さのため馬車に乗る時も抱えてやらなくてはならなかった。
しかも飛び切り具合が悪そうだ。
カファルは大きくため息をついた。
ウォーラに到着したその日はそこで一泊し、翌日、前もって依頼していた農家に馬車でダリュース湖まで連れて行ってもらい、そこから湖沿いに徒歩でグリオラスの森を目指した。
するとリッ・キアの様子が目に見えて変わり始めた。
歩くスピードが増している。
体調が上向いてきたようだった。
『村の人達が良く使う作業道がある。とりあえずそこから範囲を広げていこう』
『わかった』
リッ・キアはいつしかカファルの隣を並んで歩いていた。足手まといにはならなそうだとカファルはほっと胸を撫で下ろす。
『こっちだな。ついてきてくれ』
突然リッ・キアが道から外れた。
『おい、待て』
速い。
リッ・キアは大樹の根が行く手を阻む森の中を軽やかな身のこなしで進んでいく。
カファルは一転してついて行くのが精一杯になった。
『こっちだ』
「ちょ…ちょっと待ってくれ」
カファルが肩で息をしながら呼びかけるも届かない。
その足取りは確信に満ちているがそれはどこから来るのだろうか。
グリオラスの森はバッラザル最大の森だ。初めて来た者が自在に動き回れる場所ではない。
リッ・キアは時折立ち止まり、手を挙げたり触角を動かしているものの地図を広げるわけでもなく黙々と進み続けている。
『すまない』
突然リッ・キアが謝罪した。この期に及んで迷ったなんてことではないだろうなとカファルは青ざめた。
『君が疲れている事に気付かなかった。休もう』
カファルは思いがけない言葉に戸惑った。
『いや、ありがとう。君の方こそ具合はもういいようだね』
『人の生活環境が私達にあわないだけなんだ。もう大丈夫。今なら飛んでいけそうだ。翅は退化してるけどね』
そういうとリッ・キアはその場でぴょんぴょんと飛び跳ねて見せた。
『君はどうやって進む方向を決めているんだい?』
『光の流れに沿って歩いている』
『光の流れ?』
カファルは薄暗い森の奥へ目を凝らしたが木漏れ日は見えても流れなどはどこにも見えなかった。
『何も見えない』
『君に見えないものが私には見え、私に見えないものが君には見える。それだけの事だ』
リッ・キアは突然全身を小刻みに震わせて一つの旋律を奏で始めた。
その意味は気になったが疲れ切ったカファルにはもはやそれを問う気力が残っていなかった。
リッ・キアが再び立ち上がる。
短い休憩が終わったのだ。
軽々と森の中を移動するその後ろ姿、その向こうから水の音が聞こえる。急斜面の下に沢があった。リッ・キアはその斜面に器用に足場を見つけ降りていく。
『私が歩いた場所は安全だ。ついてきてくれ』
カファルは無言でついて行く。
本当にこの先に花があるのだろうか。何の根拠もない行動に振り回されているだけではないのか。疲労が集中力を奪い、心を折りにかかる。
体がぐらりと傾いたのはその時だった。幸い危険な石はなかったものの斜面を滑落したカファルは体のそこかしこを打撲し、足を挫いていた。
リッ・キアに差し出された手を握っても立ち上がるのがやっとで歩くことすらままならない。
「くそっ」
こんなところで―。
カファルは痛みより涙を堪えるのに懸命だった。
『悲しむ必要はない』
リッ・キアは背負っていた荷からロープと水筒を取り出す。しかし、水筒は疲労困憊のカファルの口元ではなくリッ・キア自身のそこへ運ばれ、その中身は一気に吸い上げられた。そしてロープを肩に荷を体の前面にかけると空いた背をカファルへ向けた。
負ぶうということだろうか。カファルがおずおずとリッ・キアの体に手を回すと、彼は四本の腕でカファルを軽々と背負った。
そのまま浅瀬を渡り、沢の向こう岸に辿り着くと、リッ・キアは美しい一声を発した。するとロープがどんな仕掛けか突然跳ね上がり、急斜面の上の木の枝に巻き付いてがっちりと固定された。
リッ・キアはカファルを抱えた腕を除く二本の腕でロープを手繰り寄せ悠々と急斜面を登り切った。
『着いたぞ』
ゆっくりと降ろされたカファルの足首はそれだけでも痛んだ。
脂汗がじっとりと顔に浮いている。
すぐ傍の巨大な根に寄りかかり一息ついてようやく辺りを確認する。
最初に飛び込んできた光景に痛みどころか我を忘れた。
『カーミレ…』
そこは一面カーミレの生い茂った群生地だった。
カファルは笑った。
あまりにも皮肉な話だ。
確かに辿り着くことはできた。だがこれほどの規模のカーミレを一株ずつクレチリ石でテストするなど今のカファルには無理な話だ。
その時ふとリッ・キアが手近にあったカーミレの花を一輪手折り、その切断面から盛り上がってきた液体をカファルの腫れた足首に塗りつけた。
「まさか…?」
カファルは足首にクレチリ石を直接擦り付けた。たちまち白い光が放たれる。
『花の輝きが見えて気が急いてしまった。君の疲労を考えるならば迂回した方がよかった。私の判断ミスだ』
風が撫でる様に吹き付けてカーミレの花が少しずつ揺れている。
『君には今ここがどう見えているんだい?』
四対の目には白と黄色の輝きが宿っていた。
『一面…光り輝いているよ』
『僕は…君の見ている世界を体験してみたい』
静かで美しい旋律があがった。
単調なリズムからそれはおそらくレスティナン語ではなかった。
気づくと森の虫たちがそれに合わせて鳴いていた。
それが笑い声なのだとカファルは後に知った。
了
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