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【短編小説】考える樹

 見慣れた作業道を一歩外れただけなのにまるで別な世界へ足を踏み入れたかのようだった。
 木の葉の作る濃淡様々な影が自分の歩いて来た道に軽快な模様を描いていた。
 森の少しだけ開けた場所にこんもりとした広葉樹がぽつんと立っていた。
 周囲の樹とどこか距離を置いて立っているように見えるその姿にユーカは自分を重ねている。
 樹の枝からはたくさんの蔓が地面に向かって垂れ下がりまるでカーテンのように樹の周囲を覆っていた。
 ユーカはいつものようにそれら蔓のカーテンをかき分け中へ進み樹の根元に座る。
 木陰はひんやりとしていた。
 その樹の周りには苔以外草木一本生えていないのが不思議だった。
 周囲の地面はフカフカで土の感触というよりも動物の肉球のようでとても心地良かった。
 期待感を胸に目の前の蔓に手を伸ばし、目を閉じる。
 触れた瞬間、光の明暗に包まれ暖かい日差しを感じた。
「木漏れ日が気持ちいい」
 下の方がチラチラと明滅している。瞼は閉じたままなのでそれは見えるというよりは感じるに近い。
 それに関心を向けると次いでカリカリと樹の幹をひっかくような音が聞こえた。
 次いで微かな獣の臭いが漂ってくる。
「小さな…動物かしら」
 もっと集中すればもっと多くの事が読み取れるようになるのだろうか。
 もっと読みたい。
 もっと知りたい。
 


 本が好きなユーカは一人でいる時間の方が多い。しかも好きな星の世界の話題となれば話の合う友達はほぼいなくなる。独りで考え続けることは苦痛ではない。それは彼女にとっていわば癖のようなものでやめろと言われてもやめられるものではなかった。
 15歳になり適性判定結果も現実味を帯びてくる。適職は予想通り書記官、複写士や図書資料管理者だった。
 父はそれほどでもなかったが母は娘の適性があまり現実的ではないことを心配しているらしく最終判定があと3年後に迫り焦っているようだった。そのせいで最近ことある毎にユーカを父の畑仕事の手伝いに出向かせるようになった。
 ある日の午前中ユーカはいつものように母の家の仕事を手伝っていた。
 朝食のパンが切れていたのでその買い出しでいつもより少し時間を食ってしまったが、その後の洗濯を急ピッチで終わらせ、午後からの登校前に本を読む時間を作ることが出来た。
 ランプの油が残り少なく、明るい時間帯に読書できる機会は貴重だった。
 その本は天文学者をしている叔父から借りたものでとても専門的な内容だったが、難解さすら楽しかった。
 無限に広がる星の世界に思いを馳せる瞬間、ユーカは雑多で煩雑な日常から解放される。
 星の世界の秘密を暴き、自分が何故この世界にいるのか知りたい。そしていつか必ずこの世界の真実に辿り着き自らの手でそれを書き記したい。
 嬉々として自分の部屋へと引き上げようとするユーカを母が呼び止めた。
「手が空いたのならお父さんのところへ行ってもらえない?」
「今日は何もなかったはずよ」
「お昼も届けてほしいのよ」
「それは母さんの仕事でしょう?」
「これからモールスのお母さんと大事な約束があるのよ。どうせ暇でしょ?」
「暇って!」
 頼んだわよと母は言い残しそそくさと家を出て行った。
 ユーカは父の昼食の包みを渋々手に取り、家を出る。
 いつもの道。
 いつもの風景。
 変わらない毎日。
 歩きながらむず痒くなった頬に触れて初めて自分が泣いていることに気づいた。
 このまま何も変わらず歳をとっていくことにユーカは例えようのない恐ろしさを感じていた。
 そんな時だった。その樹の存在を知ったのは。
 畑への近道である森を掠める作業道を歩いている最中にふと一人になりたくなってふらりと道を外れたそこにそれはあった。
 その樹に触れると生じる現象にユーカはすぐに夢中になり、時間を見つけては樹の元へ通うようになった。
 叔父に本を返し、畑へと通うユーカを見て母は娘が農作業に興味をもってくれたと思い込み快く送り出してくれるようになった。
 もう無理に時間を作る必要もない。
 風に揺れる蔓に触れればたちまち異世界に飛んでいける。
 バラバラだった情報が、記号が、ユーカの思考の中で次第に形を成してくる。
 初めそれは何か幻影の類なのかと思っていた。
 ある時、荷馬車の走ってくる音を拾った。突然大きな音を出して止まり、馬が嘶き、しばらくするとたくさんの靴音、話し声が集まって来た。その時はそれが何を意味するかわからなかったが、その夜、珍しく父が櫛をくれた。街道で行商人の馬車が車輪を溝に落として立ち往生していたから皆で押して助けたら礼に貰ったと聞きすぐにその事と結びついた。
 偶然と言えば言えなくもなかったがユーカには妙な確信があった。
 樹の下に座って目を閉じる。ただそれだけでフレストン中の、いや、もしかしたら世界中の出来事を知る事ができるのかもしれない。そう考えるだけで気分が高まる。
 集中力が増すとそうなるのか、次第に音も明瞭に聴こえるようになった。
 視覚情報も受け取れるようになってユーカの気分は益々高揚した。

 『誰?』

 いつものように蔓に触れ様々な現象に心躍らせていると突然問いかける人の声がした。
 その声は時折飛んでくる雑踏や道行く行商人の会話の断片などではなく明らかにユーカ自身に向けられた意志を持っていた。
 だが声は一度きりでそれ以後それが聞こえることは無かった。
 それは数多ある不思議な体験の一部に過ぎず、ユーカも気に留める事はなかった。
 この世界の広がりに比べれば本当に些細な事だったのである。
 高い空のその向こう、宇宙のようにどこまでも続く世界。
 触れることが出来る情報もただ世の中で起こっている出来事だけではなく、何か記録のようなものも感じとる事ができた。
 だが、漂う知識の断片や記号と化した言葉の欠片の集め方、拾い方にはコツがいった。
 それを読み解くためにユーカは試行錯誤を繰り返した。
 この世界の雰囲気に合わせて自分を同化させていく。
 するとその感覚が共有され今まで無意味だった情報の断片が自分の五感や言葉へと変わる。
 それが上手くいくと自分自身が経験した事がないような出来事を体感したように感じられるのだ。
 鳥の視点。
 昆虫の視界。
 様々な動物の嗅覚、聴覚。
 そして別の時代や異なる種族の記憶さえもそこにあった。それはアルクの自然観であったり、ゼムの経済や個人主義についてだったり、ヴェルムの心理学、論理学、そしてレスティナンの教育論や分析哲学など多岐に渡っていた。
 ユーカにはここにこの世の叡智の全てがあるように思われた。
 
 シリタイ

 声だ。
 だが、最初に誰と問うてきたあの声とは全く異質なものだった。
 この世界のもっと深い所から届いたように思えた。
 ユーカにはそれがまるで自分を導こうとしているかのように感じられた。
「私は知りたい」
 知らず知らずのうちにユーカもそう呟いていた。
 この宇宙の謎を知りたい。
 自分が何者なのか知りたい。
 真実を知りたい。

 ワタシハシリタイ

 また声がした。
「私も知りたい」
 ユーカはその想いに強く共感した。
 心地よかった。
 静かな深淵に落ちていくような気持ちだった。

『だめ!!』
 
 鋭い声が響いた。
 いつかの声。
 自分に向けられた意志。
 ユーカは我に返った。
 周囲の雰囲気が激変していた。
 押し寄せる様々な言葉になる以前の、意味の奔流。
 急に不安が込み上げてくる。
 目を開けようとした。
 いつもならここで現実に戻るはずだった。
「戻らない…」
 どうして?
 ユーカは焦った。
 どんどん意識が遠ざかる。
 だがそれは消えるのではなく、自分が分解されていくような、無駄なものがそぎ落とされていくような、あえて言葉にすればそんな感覚だった。
「私は…〈意味〉に…なる?」
 薄れゆく意識の中でユーカは思った。
 自分でもそれがどういう事なのかわかっていなかった。
 だが嫌な気分ではなかった。
 霞む視界の先に光の球が見えた。

 シンジツ

 世界の意味があそこに?
 ユーカは思わず手を伸ばした。
 同時にその反対側の腕を引かれる感覚があった。
 手の温もりが伝わってきた。
「そこにあなたの求めるものはないわ」
 小さな子供の手だ。
「あなたは知りたいんでしょ?星の世界の理を。真の存在を。そしてそれを自分自身の手でまとめ上げたい。違って?」
 そう、その通り。
 その通りよ。
 私は私の手で残したいの。
 ユーカはもう一度瞼を開けようとした。
 視線の先で光が膨張した。


 森の臭いが流れ込んできた。
 焦点が定まるとそこに6、7歳頃の女の子が立っている事に気付いた。
「あのまま落ちていたらあなたの心は樹の無意識の中に取り込まれてしまったのよ?」
「あなたが私を?」
「そうよ、ユーカ。私はクベトゥシュ。妖精王の巫女よ」
 あどけなさが残る少女の口調は妙に大人びていた。
「巫女?巫女様は今いないはずだわ」
「まだ修行中なの。でもおかしいわ。ここは私以外近づけない場所よね?なぜ彼女を入れたの?」
 クベトゥシュがそう言って初めてユーカは彼女の両隣に全身黒ずくめの男の姿があることに気づいた。
 いや気づいてはいた。だが関心がなかった。
 その存在はまるで空気か何かのように意識の外にあったのだ。
 クベトゥシュに何を聞かれても男達は同じ姿勢のままだった。
 だがクベトゥシュは会話をしているかのように何度か頷いて、そして言った。
「あなたには資格があるという事よね。彼らが止めなかったという事はつまりそういう事よね」
「あ、あの…」
「あなたの知的好奇心は凄いと思う。だから思考樹と共鳴してしまったの。情報を集めて生き永らえる植物型の種族。それがこの樹。思考樹というものなの。私達はこの樹を使ってたくさんの情報を知り、そして送る事ができる。今まであなたの経験した事は全てこの樹が集めた情報や知識なのよ」
「待って…待ってください。理解が追いつかない」
「失望させないでユーカ。あなたはもっとできる子だと思った」
 まるで歳が逆転しているかのような二人だった。
「私を罰するのですか?」
「そうね…。もうこの樹に近づいてはダメよ」
「…そんな…」
 ユーカの失望は大きかった。
 母から本を読む時間を取り上げられ、唯一残った知的好奇心を満たせる場所も失ってしまった。
 ユーカは項垂れた。
「でもあなたがここに来れた事には意味があると思うの。それは妖精王の気まぐれなのかもしれないし…。あ、そうね、ひょっとしたら私が近い将来死ぬから後継者が必要なのかもしれないわね」
「し、死ぬって」
 恐ろしい言葉がクベトゥシュの口からまるで日常的に交わされる挨拶のようにあっさりと出てきたことにユーカは驚いた。
 この女の子は私とは別の世界に住んでいる。
「それに独学で思考樹の意識の第三層まで降りていけるなんて才能、埋もれさせる訳にはいかないわ。だから…そうね!あなた、卒業したら私の傍で働きなさい。そのためには今よりたくさんの知識を身に着けてもらうわ。いい?」
 クベトゥシュはユーカの目をしっかりと見据えていった。
「じゃあ、三年後、あなたを迎えに行くわ。好奇心を捨てちゃだめよ。好奇心があなたをここまで導いた事を忘れないで」
 クベトゥシュは一方的にそう告げると森の奥へと消えていった。
 鳥の羽ばたきが聞こえた。
 妖精王の神殿は王宮の裏庭。
 フェルトン山脈に沿った大きな崖の麓にあるという。
 クベトゥシュの去って行った方向はまさにその方角だった。
 引っ張られたクベトゥシュの手と触れ合ったのは一瞬。だが、その一瞬でユーカはあの幼女と心が通じていた。
 触れあった瞬間―それは本当に手だったのかよくわからないのだが―ユーカはクベトゥシュが信頼に足る人物だと知った。
 だからこそ全てを預けられここに戻ってこれたのだと思う。
 ユーカは枝から蔓をたくさんぶら下げたその奇妙な大樹を見上げた。
 樹齢は百年を優に超えているだろう。
 自分が見たのは果たして何年分の、いや何日分の知識だったのだろう。
「よし」
 ユーカは立ち上がり、もう一度叔父からあの本を借りようと心に決めた。



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