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【短編小説】赤は嫌い

「どう?綺麗でしょ?」
 看護師のファイが窓辺に新しい鉢を置いた。
 水をやったばかりなのか赤い花びらに付着した水滴が陽光に煌めきながら滑り落ちた。
「テレーザ、お花、好きよね?」
 魔獣の残滓を吸い込み過ぎた私を皆腫れ物に触るみたいに扱う。
 心が壊れる一歩手前の人間。あと少し多く吸い込んでいたら楽になれたのかもしれない。
「好きよ。でも色が嫌い」
「あら、赤い花って元気がでるじゃない。情熱的で」
 嫌な事を思い出した。
 ファイは嫌な事を思い出させる天才だ。
 私が舌打ちするとファイは一瞬怯んだ顔を見せた。
「ダメかしら。あとで別なお花に替えておくわね」
「今すぐやって!」
「ごめんなさい、テレーザ。でも大きな声をださないで。心を落ち着かせて」
「私が悪いっていうの?」
 イラ立ちも、大声を出すのも、残滓を吸い込み過ぎたのも。私のせい。
 世界は私を悪者にする。
「そうじゃないの」ファイが必死で取り繕おうとしている。
 深呼吸した。
 薄汚れた天井。
 吸う息も吐く息も汚れているようにしか感じられない。
 忌まわしい光景は私の意志とは無関係に心の底から泡のように浮かび上がって来る。
 やがて1年前のあの出来事が私の頭の中に溢れかえるだろう。
「赤い髪、赤茶色の瞳、静かで頼りない男の子」
「誰の事?」
 誰?ウィル…確かあの子はそう名乗った。
「私はその子がいじめられているのをずっと見て見ぬふりをしていたの」
「自分の身を守るためには仕方のない事もあるわ」
「その子の両親は魔獣に襲われたの。それで親戚を頼ってイアルまで来ていた」
「それで仲間外れに?」
「その子の声が可笑しかったからラルシュ達は面白がってた」
「声?」
「叩いたり、殴ったりした時の呻き声や悲鳴。その度にあの子は可笑しな…真似できないような奇妙な声をあげた」
「特徴のある声は面白がられてしまうものよね」
「面白がってない!私は…面白がってなんかないわ!」
 体が勝手に震えだす。
「ごめんなさい、テレーザ。そういう意味じゃなかったのよ。もしあなたがいじめを止めるとしてどうやるの?ラルシュ君達相手にあなた一人じゃどうしようもなかったわ」
「あの声が…恐ろしいの。私、一度だけ見せてもらったことがあるの」
 ファイがため息をつく。
 また意味のわからない話に付き合わされるとでも思ったに違いない。
「見せてもらった?聴かせてもらったじゃなくて?」
 可笑しい。やっぱりだ。全然わかってない。
「倉庫の整理をしていたあの子がランプの灯を指さして言ったの『見てて』って」
「灯を?」
「ええ。そしていつものあの可笑しな声を出したのよ。そしたらね、ランプの炎が揺れるの。あの子の声に合わせて」
 ファイは笑いをこらえているように見えた。
 大人は皆そうだ。子供の言う事が自分の常識から少しでもズレると空想か何かだと決めてかかる。
「素敵じゃない。いい子ね、その子。どんな仕掛けだったの?」
「やめて!」
 私が少し大きな声を出すとファイは途端に困った顔になる。
 でもどうしようもない。
 私はハル製の壊れたカラクリと同じだ。
 私の心が疲れ切って意識果てるまで忌まわしい日を繰り返さないといけない。
「ラルシュ達に連れられて、洞窟に行った時の事…。あなたには話したことなかったわよね?」
「え…ええ、ないわ」
「村の端の大人達が絶対に近づくなと言っていた洞窟。知ってる?奥には〈遺跡〉が眠っていて、魔獣が集まって来るから誰も入っちゃいけないって言われていた洞穴。そこに私達は行ったの。ラルシュが勇気を試すとか言い出して。それなのに先頭はあの子だった。可笑しいでしょ?嫌がらせのつもりだったみたいだけど、私には臆病者が後ろからのこのことついて行ってるようにしか見えなかったわ」
「それは…あの日の事ね?テレーザ」
 ファイは止めたがっているようだった。いつになく強い眼差しを投げかけてきたからすぐにわかった。
 でももう遅い。私はもう洞窟の中にいる。
「かがり火の籠は昔の人が造った物みたいで見た事がない模様が彫られているの。何事もなく奥へ進んで行ったけどあれは…アレンかしら、突然あの子の背中を蹴って転ばせたの。そしたらあの子がまた可笑しな声を出したから、みんな笑ってる。能天気にね」
「テレーザ、もうその辺で」
 ファイは困った顔をしていたけれど私は見ないふりをした。
「その時、私は目を逸らしてた。酷い目にあっているあの子の姿を見たくなかったから。そしたら小さな黒い蜥蜴を見つけた。とても嫌な感じだった」
 でも私はそれも見ないふりをした。心の外の闇の中に置いてしまえば現実じゃなくなるもの。直視する必要がないものをどうして見る必要があって?見れば不幸せになるとわかっているのに。
「テレーザ…」
 ファイが私をベッドに横になるように促したけれど私はその手を振りほどいた。
「テレーザ…、本当はその話、先生から聞いているわ。あなたがどうしても話したいみたいだったから止めなかったけど、止めるべきだった。やめましょう」
「知らないわ。あなたは何も知らない。あの子が可笑しな声を出して転ぶと周りのかがり火が一斉に揺れるのよ!」
「…そう不思議ね」
「私の話を信じないのね?」
「違うわ、違うわよ、テレーザ」
「勇気のある子だった。転ばされても立ち上がって、また〈遺跡〉に向かって歩き出してる。〈遺跡〉に興味を引かれたみたい。誘われているようにも見える。だって…あの子が〈遺跡〉に近づくとそれが輝き始めるんですもの!!」
 私は身動き一つできなかった。いいえ、思えばその時から時計の針も動いていない。私の心の中では何も進んでいない。私は繰り返さなければならない。
「〈遺跡〉は何か大きな筒みたいだった。あの子はラルシュに言われて中を確かめさせられてる。触ってたら筒の上側がズレたみたい。あの子が覗きこんでるわ。やめさせて。来るわ。来てしまう。ほら!光が…光がたくさん!!もう止めなきゃ!!!」
「落ち着いて。思い出すのをやめて!」
「セシルが黒い蜥蜴に気付いて悲鳴をあげた。でも私はおかしいってすぐに気づいた。だって光で満ち溢れたその場所でもその体は全然光を反射していなかったのよ?それをアレンが…面白半分で捕まえたわ。ああ…!!」
「テレーザ!」
「アレンの姿は真っ黒だった。小さい蜥蜴は広がって一瞬でアレンを呑み込んだの。魔獣よ!そしてアンドレ、ニコラ、セシル…みんな呑み込まれた…。悲鳴一つあがらなかった。静かに静かにみんな…みんな心を喰われて…死んで…」
 涙が勝手に頬を伝っていく。怖いとかそういうのじゃないの。
 わからない
 目の前で起こっている事に追いつけない。
「ラルシュは私を置いて逃げようとした。でもそんなことはどうでもいい。彼がその程度の人間だってことは知っているもの。それより私は私の目の前で赤い髪が揺れているのが不思議だった」
 でも何故あの子は私をかばってくれるの?
 何のために私なんかを?
 その時私はようやく悲鳴をあげた。体も動くようになった。
 あの子が盾になってくれて考える時間ができたからかもしれない。そして急に怖くなった。
 死ぬ事が。
「黒い蜥蜴は最初に見た時の何倍も大きくなっていく。私達を呑み込もうと黒い霧のように広がっていく」
「ここは洞窟じゃないのよ。テレーザ、わかる?」
 ファイの声は聞こえていた。
 だけど私が見ている光景は洞窟のままだった。
 あの陰惨な、恐ろしい現場、そこに突然可笑しな声があがって、でもその声はすぐに美しい旋律に変わって、
 それは今までバラバラに押し続けていたピアノの鍵盤を、和音を覚えて繰り返す事ができるようになったようなとてもたどたどしいものだったけど「この世のものとは思えないわ。美しすぎて。ううん、人の声ですらない」
 私は可笑しくて笑った。あまりに不釣り合いなその出来事に。
「美しい?テレーザ、あなたは何を見ているの?」
「聴こえないの?赤毛の男の子の声。歌になった声。あの子が歌うとかがり火が炎の柱になったわ」
「歌で火を?」
「そうよ。そして炎は辺り一面に満ちた。なんてことなの。こわい!空気が熱い!肌が痛い!肺が焼けてしまう!もう許して!黒い霧は跡形もなく焼き尽くされていく。辺りが魔獣の残滓で満ちていく…」
 あんなにバカにしていた〈声〉に救われてラルシュは呆然としてた。
 可笑しい。
 私が笑うとファイは心配そうな顔をした。
 笑っちゃいけないわけ?
「その男の子は命の恩人なのね?」
「私、意識を失ったの」
「残滓をたくさん吸ってしまったんだもの仕方ないわ」
「ありがとうが言えなかった。気づいたらあの子はいなかった。治療のために遠い国に行ってしまったんだって」
「そうだったの。でもあなたの感謝の気持ちは伝わってると思うわ」
 そんなはずはない。
 態度にすら出せていないのに。
 謝りたかった。
 そして許されたかった。
 でもあの子はもういない。
 私は私の心を解放できないまま、償う事も許されず辛い時を生きることを強いられている。
「酷いわ」
「私、何か言っちゃった?ごめんね」
 ファイにはわからないだろう。
 あの子がいなくなったのは私のせいじゃない。
 謝りたかったのにいなくなったのはあの子が悪いの。
 あの子は私から謝る機会を奪った。
 私が許される機会を奪った。
 私に苦痛の中で生きろというのね。
 憎い。
 私を苦しませる。
 あの…赤い髪が。


「テレーザ?気分はどう?」
 私はいつの間にか意識を失っていたようだ。
 もう窓の外は暗かった。
「あまり興奮しちゃだめよ」
 私は心配そうなファイに大丈夫だという事を示そうと起き上がった。
 瞬間息が停まった。
「赤い髪…」
 部屋の隅、昼間は空いていたベッド。
「え?ああ、リンギオ君ね。あなたが眠っている間に運ばれてきたのだけど…え?もしかして…彼が?」
「まさか」
 名前が違う。体つきも一回り以上大きくてガッチリしている。
「彼すごいのよ。魔獣に襲われたらしくて安置所に運ばれたのに意識を取り戻したんだって。先生も驚いていたわ」
 そう言うとファイはその赤髪の患者の元に行った。
 安置所―生体安置所。魔獣に心を喰われて弱った人が死を待つ部屋。死体安置所で死体が動き出す方がまだ驚かないと言われているような酷い場所。
 でも興味はなかった。
 むしろ死ねなかった事がかわいそうに思えた。
 きっと生きていても何が楽しいかわからないだろう。
 だけど死んでも楽しい事が保証されているわけじゃないから私は生きている。
「地獄ね」
「あっ…」ファイが小さく悲鳴をあげた。「名札をベッドの下に落としちゃったみたい」
 ファイがベッドの下を覗きこんでいる。
「ごめんなさい。リンギオ君、そこのランプを取ってくれない?」
 いつもの事だ。ファイは気が利くがミスも多い。動いた分だけ仕事を増やす。
 私は目を瞑った。
 全身が気怠い。
 どこからか美しい調べが流れてきた。
 とても小さく、微かな。だけどこの世のものとは思えない。
「あら、照らしてくれてありがとう…あった!」
 込み上げる悲鳴を私は両手で塞いだ。
 空気を求めて水面に顔を上げるように私は起き上がった。

 赤茶けた瞳がこちらを見つめている。
 

〈了〉

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