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小説/N市の記憶。もしくはその断片。#10 探偵vs殺人鬼 #1

〈ポリスアカデミー〉が好きだ。
 といっても、若い人は知らないかもしれない。アメリカのコメディ映画である。
 一九八四年、記念すべき第一作目が公開され、その後の十年間にシリーズ七作品が制作されている。
 味付けの濃いコメディ作品だ。絶頂期だったアメリカのユーモアにあふれ、エネルギーに満ちている。現在のアメリカには作れない映画だ。ユーモアもエネルギーも失われて久しい。
 子供のころ、アメリカは憧れの国だった。
 ローラースケートの金髪少女。
 風船ガムを膨らませながら、ボードゲームに興じる少年たち。
 歓声と喝采にたなびく星条旗。
 ——と思うと、久しぶりに〈ポリスアカデミー〉を観たくなった。若いころに買い揃えたビデオテープがあったはずだ。
 夜遅く、準備を整えてテレビの前に座る。
 とたんに磁気テープが擦り切れそうな悲鳴をあげる。主人公のマホーニーの顔が大きく歪み、虹色のノイズが画面を上下する。ハイタワーの声が急に大きくなったり、タックルベリーの声が聞きとれないほど小さくなったり、音声がぶつぶつと途切れる。
 それは一九八四年のアメリカではなく、見たくない現在のアメリカだった。
 停止ボタンを押した。取り出しボタンを押しても、ギアが空回りする音をたてるだけで、ビデオテープは二度と出てこなかった。
 明日はゴミの日。
 さようなら、世界警察。

 それを怪談と呼ぶには、納得がいかない。納得できる怪談というのもおかしな話だが、基本、怪談というものは人を怖がらせるために存在しているのだと思う。何度も語られ、そのたびに構成が練られ、効果的な描写があり、聞いた後に寒気がするような、そんな怪談が優れた怪談だと思う。
 そういう意味で、この怪談は失敗作と言わざるをえない。

 N市を走る環状線の一つの駅、S町駅のホームで、二人の男が追いかけっこしているのだという。
 高橋暁斗さん(当時十六歳)は学習塾の帰り、駅のホームのベンチに腰かけて、参考書を読んでいた。騒がしい足音が聞こえてきた。電車が来る方向と同じ右側からだ。
 高橋さんは無視した。常識のない若者がふざけているのだと思った。
 二人分の足が参考書のページの上を駆けぬけていく。
 一人は運動靴。もう一人は革靴。
 時計を見る。電車はまだ来ない。
 しばらくすると、騒がしい足音が戻ってくる。今度は顔をあげて、そちらに目を向ける。
 追いかけられているのは若い男で、同い歳か、少し上ぐらい。追いかけているのは中年の男。冴えない黒のスーツを着て、自分の体を大きく見せるためか両手をあげて、子どもを怖がらせるハロウィンのお化けみたいだ。
 再び、高橋さんの前を走り過ぎていく。
 二人にあわせて、視線を動かす。
 おや? と思う。
 通り過ぎていった二人の姿が、ある距離から一向に遠くならない。止まっているわけではなく、二人は走り続けている。目の疲れによる錯覚なのか。目を閉じて瞼をこすってみても、目を開けると二人の姿はまだ同じ場所にあって、それなのに全速力で駆けている、ように見える。
 電車の到着を知らせるアナウンスが流れ、高橋さんはほんの少し目を離した。
 視線を戻すと、二人の姿は消えている。

 だから? という話だ。
 どうして、こんな話が若い人たちのあいだで盛り上がっているのか、まるでわからない。
 しかし〈N県のトレンド〉となる日もあったらしく、SNSで呟かれている件数はかなり多い。それだけ目撃者も多いということなのだろう。駅のホームで走っている男なんて、現実でもよく見かける光景だ。それが、同じ体験をしたかもしれない、と共鳴しやすい人たちの呟きによって、盛り上がっているだけなのかもしれない。

 怪談は一つの話芸だと思う。そうなるとフォーマットというものが存在し、最後に「実はね……」と現象の原因が明かされることが多い。話の初めに「この部屋で自殺した人がいてね。だから、こんなことが起こるんだけど……」と話しはじめることはまずない。
 この話にも「実はね……」が存在する。
 それは古い話ではなく、令和四年の五月のことだ。
 十八歳の少年が刺された。犯人は四十八歳の男で、少年をナイフで滅多刺しにした後、自分はホームに入ってきた急行電車に飛びこんだ。
 少年と犯人に面識はなく、通り魔的な事件だったはずだ。犯人が死亡してしまったので、被疑者死亡のまま書類送検され、動機は明らかにされていない。
 ——この事件もN市だったのか。
 といって、田沼文乃の行方不明や、二人の女子大生殺人事件と関係しているとは思えない。N大学からS町までは、地下鉄かバスでN駅まで出て、N駅から環状線に乗り換える。所要時間としては二十分程度の距離だが、調査対象として拡げ過ぎという気がする。これだけの距離と時間が離れた事件を疑っていたら、収拾がつかなくなり、本当に調査しなければならない対象を見失うだけだ。

 と考えていたのだが、宝田孝蔵さんの話を聞くことになったのは、まったくの偶然である。
 駅近くのコーヒーショップで高橋さんの話を聞き、怪談のオチ部分「実はですね……」を高橋さんが話し終えたとき、それを見計らったように「その事件なら、私、見てましたよ」と宝田さんのほうから話しかけてきたのだった。


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