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小説/N市の記憶。もしくはその断片。#7 鎮守の森 #2

 頂上には、N大学の施設(天文学や気象情報を研究するための)があり、駐車場と休憩するための東屋があった。
 車を停めて、周辺を歩く。
 案内板があり、車でわずか数分の、地形が少し盛り上がった程度の丘という印象だが、〈黄魂山〉という正式な山名があるらしい。標高八十メートルと高くはないが、町全体がすり鉢状になっており、展望台からの見晴らしは悪くなかった。
 この町で、二人の女性が殺害され、一人は行方不明——

 深谷夏帆さんの殺害現場は、どこなのかわからなかった。
 地図で見れば小さな雑木林でも、一人の人間が歩いてまわるには広すぎるし、道からそれて一歩森に踏み入れば、そこはまさに迷宮である。
 ならば、どのようにして深谷夏帆さんの遺体が発見されたのか?
 深谷夏帆さんは全裸の状態で、手足を縛られて、操り人形のように木に吊るされていた——その遺体状況は猟奇的で、芝居がかって思える。そして、遺体発見にいたる経緯も不自然なところがあり、いくぶん芝居がかっている。

 発見したのは、河井倫也——逮捕された木幡猛の友人である(河井倫也は友人という言葉を使ってほしくないらしく、知り合いです、と訂正してきたが)コンビニでアルバイトをしていたときに知り合い、連絡先を交換したが、二、三度飲みに出かけたぐらいで、実際、友人と呼べるような関係ではなかったらしい。
 河井倫也は、事件前から深谷夏帆さんのことも知っていた。飲みの席で木幡猛に紹介されて、一度だけ一緒に飲んだこともあるという。
「可愛かったけど、なんだか企画モノの素人というか」
「というと?」
「自分では気づいてなかったみたいだけど、笑顔が嘘っぽいというか、テンションだけ高くて、本当は何もわかっていないというか、上手く言えないけど」
 と、河井倫也は言うが、事件当日、わざわざN大学の裏手にある雑木林まで足を運び、結果、彼女の遺体を発見することになるのだから、何らかの期待があったのだろう。

 警察に何度も話したから、と嫌がる河井倫也を説得し、もう一度、遺体発見状況を聞かせてもらったのは、まだ知らない何かがこぼれ落ちる可能性があったからだ。
「LINEがあったんです。夏帆ちゃんから」
 鼻の頭を掻きながら河井倫也は話す。
「N大学で待ってるって、重要な話だから、会って話したいって」
「何の話だと思った?」
「別れ話だと思いました。木幡と別れたいと、その相談だと思いました」
 午後十一時、スクーターを走らせて、河井倫也はN大学に向かう。
「でも、N大学の門の前には誰もいなくて、〈どこ?〉って送信したら、裏手にある公園にいるって」
 しかし公園にも、深谷さんの姿はなかった。
 河井倫也は再度LINEを送る。すぐに既読になり、〈もっと奥〉とメッセージが返ってくる。
 夜の漆黒から木々が生えているような暗闇。
 河井倫也はスマホのライトで足もとを照らしながら、不安になるたびにLINEを送った。そのたびにすぐに既読になり、〈もっと奥〉とか、〈そこを右〉といった的確な指示が返ってくる。
「不思議に思わなかった? 女の子がそんな林のなかで待ってるって」
「そのときは思いませんでした。それよりも怖くて、とにかく誰かに会いたいって感じで」
 しかし、河井倫也は生きた人間に会うことができなかった。
 初めに見えたのは、スマホライトに浮かびあがる、宙吊りになった足だという。

 河井倫也にLINEを送っていたのは、もちろん深谷さんではない。
 犯人——それはすなわち木幡猛となるのだが、人物像が合致しない。木幡猛の人物像は粗暴で、短略的、人を騙してコントロールするようなタイプではない。まして河井倫也に遺体を発見させた目的がわからない。生前の彼女を知る人物に自分の作品を見てもらいたかった?

「最後に」と私は言った。「アダルトコンテンツはよく観るの?」
 河井倫也は、なぜか嬉しそうに頷く。
 内容をたずねると、単品女優モノが好きだという。
「素人企画モノよりも、どうせ嘘なら、嘘に徹底してもらったほうが」
「木幡猛は?」
 何度かアダルトコンテンツをメール添付して送ったことがあるという。
「でも、木幡はそういうのあまり興味なかったんじゃないかな。彼女もいたし」
 警察の発表では、木幡のパソコンからは、女性を縛ったり、鞭で打ったり、拷問するような映像が大量に見つかったとされている。
「嘘だと思いますよ」と河井倫也は簡単に言ってのけた。
「だって木幡はめんどくさがりでしたもん。めんどくさがりがアダルト画像集めたり、SMとかしないでしょ? ふつう」
 河井倫也のいう〈ふつう〉が、私にはわからない。わからないが、木幡猛と猟奇的な事件を結びつけるために、警察が印象操作した可能性はある。私としても、木幡があのような犯罪を犯すとは考えられない。しかし、その部分をどれだけ掘り下げても、最終的には〈人間というやつはわからない〉というブラックホールに落ちていく。

 黄魂山の山頂を歩き、駐車場に戻ると、東屋で休んでいる初老の夫婦の姿を見とめた。
 声をかけてみる。
 初対面の人間に声をかけられて、怪しんでいるとまではいかないだろうが、奥さんのほうが無言のまま、小さくお辞儀しただけだった。旦那さんのほうは紙タバコの先端を見つめ、顔を上げることもなかった。
 東屋のなかは、紙タバコ特有の臭いがした。
 私は、旦那さんのタバコを吸うタイミングに呼応して、加熱式タバコのスイッチを押した。
 事件について聞いてみたが、知らないとのことだった。
 訊けば、昨年N市に越してきたばかりらしい。旦那さんが会社を早期退職し、奥さんの生まれ故郷であるN市に生活の場を移した。収入は減ったが、現在のほうがずっと快適な暮らしができていると奥さんは微笑む。
 私は別段目的もなく、先ほど歩いた山道の話をはじめた。その途中で見かけた二本の柱、鳥居のような——
「鳥居のような、ではなく、鳥居ですよ」と私の言葉をさえぎって、旦那さんのほうが口を開いた。「昔、神社があったんです」
 一本目のタバコを吸い終わり、矢継ぎ早に二本目のタバコに火をつける。話しはじめると、気さくそうな旦那さんだった。
 旦那さんによると、N大学ができる前には、黄魂彦神社という神社があったという。
 御祭神は、大己貴神、天照大神、建御名方。
 N大学が設立されたのが、昭和五十二年、一九七七年のことだから、およそ五十年前のことになる。もちろんN大学が設立されたのと同時に、黄魂彦神社が取り壊されたとは限らない。N大学は増改築を繰り返しているので、それにつれて少しずつ縮小していったのかもしれない。神社の規模が小さくなるにつれて信仰も少なくなり、どこかの年代で完全に消失した。
「天照大神、建御名方……」
「時代の流れで合祀されたんでしょう。他にもそういう神社はありますから」
「ここは鎮守の森だった、ということですか」
「ええ、もしかしたら、御神体そのものだった可能性もあります。日本は山岳信仰が根づいていたので」
 聖域という言葉が脳裏を過ぎる。安易に足を踏み入れてはいけない場所だ。
 私は悟りを開いていないし、信仰心もない。それでも、お地蔵様を蹴飛ばさないぐらいの道徳心は持ち合わせているつもりだ。
「お詳しいんですね」
「いやね、こっちに来てからやることがなくて、暇つぶしで土地の歴史を調べてるんですよ」
「黄魂彦というのは? 地名ではなく、名前のようですが」
「ああ、それは私も気になって調べているんですが、いまのところ、さっぱり」
 黄魂彦。
 黄色。
 太陽のイメージ。向日葵の花びら。信号などにも使用されている警告色。
 旦那さんが次のタバコに火をつけたのをきっかけに「ありがとうございました」と頭を下げて退散する。
 黄色。
 極楽浄土。
 キリストを裏切ったユダの色。
 中国五行説では〈土〉を意味する。
 私が連想しているのは、死後の世界を意味する〈黄泉の国〉の黄色だ。


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