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小説/N市の記憶。もしくはその断片。#16 不法侵入 #1

 また、あの音が聞こえる。拍子木を打つ音だ。
 硬い木を打ちあわせる甲高い音が響く。
 町中に響き渡るような大きな音だが、誰が鳴らしているのかわからない。時間もまちまちで、午後八時だったり、深夜の午前二時だったり、自分が気づいた時間に鳴っている気がする。
 気になると気になりはじめる。
 気になっているかぎり、その音は鳴り止まない。眠らせてくれない。
 目を開く。眠ることを諦めて、階下に降りては水を飲み、部屋に戻って目を閉じる。三十分おきに繰り返す。
 ささくれ立った気持ちを落ち着かせる。
 勝手にすればいい、と呟く。この頭も目も鼻も、この体も、おまえの好きにすればいい、と祈る。
 すると、音は鳴り止む。

 私は峰岸の日記を閉じた。
 峰岸は普通の人間だった。そこに書かれていたのは、日常的な気持ちの吐露であり、毎日殺人のことを考えているサイコパスではないし、社会や自分の置かれている環境に敵意を剥き出しにして、自分を正当化する論理を構築していく——世界を〈自分〉で埋め尽くして、〈自分〉から逃げられなくなった人間でもなかった。懐中電灯の光のなかに浮かぶ字は読みやすく、異常性は感じられない。
 それどころか、もしかしたら良き話し相手になったかもしれない。
〈ポリスアカデミー〉は、私もいちばん好きな映画だった。

 その夜(午前二時)、私たちは峰岸邸にいる。
 勝手口の門を乗り越えて、峰岸邸の敷地に足を踏み入れると、草木の青い匂いがした。庭木は好き勝手に生い茂り、雑草が地面を覆い尽くしていた。
 月がきれいな夜だった。煙のように霞んだ雲に下辺を隠した月が、峰岸邸を淡く照らした。そういえば、もう何年も月を見ていなった気がする。
 峰岸邸の一階は、病院として使われていたそのままの姿で残されていた。土間続きになっている待合室と診察室——待合室には備え付けのベンチがあり、それは病院というよりも昔の駅舎でよく見かける木製の古びたものだった。
 診察室に入ると、戸棚や机、医師だった峰岸の祖父がここに座って診察していたのだろう椅子が置かれていた。荒らされてはおらず、すべてが整然としている。診察室の端にはベッドがあり、朽ちたマットレスだけが時間の流れを感じさせた。
 暗闇を、二つの懐中電灯の光が這いまわった。
 後ろをついてくる田沼氏の鼻息が荒く、もちろん外まで響くような音ではないのだが、妙に気になる。
 無言のまま、奥に進んでいく。
 廊下があり、それぞれの扉の上には室名札が突き出している。手術室もあったようだ。部屋はがらんどうで、設備は残されていない。次に入った薬品室も同様で、壁沿いに整列した戸棚があるだけで、その中身は空っぽだった——と、懐中電灯の光が反射する。部屋の奥に何かがある。
 それはステンレスパネルで覆われた薬品保管庫だった。高さは一メートル程度、部屋の隅に二つならんで設置されている。
 想像した。
 殺人鬼の冷蔵庫。
 そこに入っているものを知ってか知らずか、田沼氏が誘われるように、私を追い越して歩いていく。
 それを手で制する。
「私が確認します」と小声で告げる。
 近づいていく。
 温度管理が必要な薬品を収めていたのだろう。電源ランプは点っていない。
 把手に手をかける。
 鍵はかかっていなかった。密閉された空気が抜けるときの抵抗があり、薬品庫の扉が開く。懐中電灯の光を向ける。
 深呼吸する。
 何も入っていなかった。
 もう一つの薬品庫も同様に、からっぽだった。

 一階の奥には居住スペースがあり、台所兼ダイニング、浴室などの水まわりがあった。台所にはスパイスの瓶が小綺麗にならべられていた。
 台所に併設して和室の部屋が一つあり、診察の合間の休憩などに使われていたのかもしれない。部屋の真ん中にダンボール箱が積まれて置かれていた。開くと、峰岸の私物と思われる品々が入っている。警察が捜査のために押収し、事件立証に不要と判断したものを返却したのだろう。
 私はダンボール箱に入っている物を取り出しはじめた。ノートパソコンや自筆のメモ、古い映画のビデオテープ、峰岸宛てに送られた封筒やハガキが入っている。一枚ずつ裏表を確認する。ハガキや封筒は、保険の勧誘や展覧会の案内ばかりだった。交友関係をしめすものではないが、峰岸が展覧会に行っていたことがわかる。信用金庫が主催している日本画の展覧会——これは一回でも住所を記載すると毎年送られてくるので、峰岸が展覧会に足を運んだのは一回きりだった可能性もある。
 ダンボール箱の底には、表紙の黒ずんだノートが数冊あった。
 田沼氏が懐中電灯の光を向けてくれる。
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