見出し画像

小説/N市の記憶。もしくはその断片。#19 殺人家族 #1

 熱があるのか、体がだるい。
 額に掌をあててみるが、これで熱があるのかわかったためしがない。コロナ以降、非接触の体温計がどこのホテルにもあるので、受付で測ってもらう。
 三十六度二分。熱はないようだ。
 それでも体調が悪いのは変わらない。ドラッグストアで葛根湯を買って、今日はホテルの部屋で休むことにする。
 清掃不要のマグネットシールをドアに貼っていたが、途中、留学生アルバイトらしい従業員に何度もノックされて、そのたびに応対しなければならず、眠れそうで眠れない。
 それでも数分は眠っていたようだ。線香花火の下で小人たちがバケツを構えて、熱源が落ちるのを待っているおかしな夢を見る。

 二十一日、N市荒神区の住宅敷地にて、白骨化した遺体四体が発見された。性別不明、年齢不詳。警察は司法解剖を実施し、死因や身元を調べている。なお同敷地内では先日も白骨化した遺体が発見されており、これで計五体となる(令和五年五月二十二日、朝刊抜粋)

 喫茶店でモーニングを食べながら、新聞を読む。
 峰岸の犯行だろうか? と思う。
 いつから埋められていたのか? 鑑定が進めばわかってくるだろうが、もしも年代が古ければ、峰岸ではなく、峰岸の父親、峰岸雅彦の可能性も出てくる。
 親子二代で殺人?
 新聞の情報では、まだ殺人事件には言及していない。
 四体もの遺体が同邸の敷地内から発見されたのだから、殺人と見て間違いないだろう。しかし被害者は身元不明であり、現時点、行方不明者家族からの問い合わせはないようだ。さらに容疑者である峰岸敏彦、もしくは父親の峰岸雅彦は、すでに死亡しており、警察としては、誰も得する人間がいない迷惑な発見になったのかもしれない。
 N県警が公表している行方不明者は、ネットで確認することができる。
 キーワードは、二十歳前後の女性、そして六月——
 ヒット件数はゼロ。
 捜索願いが出されていない行方不明者は当然載っていないし、掲載されているのは、平成十年以降のようだ。それ以前に発生した行方不明案件となると、警察に問い合わせてみるしかない。
 峰岸邸にも足を運んでみた。青いビニールシートに遮断され、様子を覗き見ることはできない。
 しかし、その代わりと言ってはあれだが、偶然通りがかった秋元裕子さんに話を聞くことができたのは、幸運だったと言わざるを得ない。
 秋元裕子さん(八十二歳)はこの町で生まれ、峰岸家のことは、峰岸敏彦の祖父、医者であった峰岸努の代から知っており、実際に峰岸病院にも通っていたことがあるという。

 秋元さん宅は、峰岸邸から五十メートルほど歩いた場所にあるアパートのいちばん左の部屋だった。以前はもう少し先にある一軒家に住んでいたが、両親が亡くなり、自分も年老い、家を処分することに決めた。
「残しておいてもねえ、子どももいないし」
 秋元さんは結婚していない。
「別にこの町を離れてもよかったんだけど、知ってる人も多いし、ここの大家さんもね、昔から知っててね」お茶を淹れながらも話が止まらない。「最近は嫌がられるでしょ? 老人の一人暮らしって。迷惑かけるかもしれないって言ったんだけど、いいよいいよって言ってくれて」
 お茶を淹れて、すでに封の開いているビニール袋からがさがさと煎餅を取り出し、冷蔵庫から果物ゼリーを取り出してからようやく、秋元さんは本題を話しはじめた。
「優しい先生でしたよ」
 当時、峰岸病院の待合室には、老若男女、絶えず診察を待つ人がいたという。秋元さんが十代の頃、昭和二十年代、太平洋戦争が終わり、大人たちは毎日忙しそうだった。N市にも大規模な空襲があり、町は大きく傷ついていた。怪我人や病人も多かった。
「病院に来れない人のところには、先生のほうからね、その人の家まで行ってね。子どものころはよく見かけましたよ、先生がハアハア言いながら自転車こいでるの」
 前傾姿勢で、まるで競輪選手みたいだったと笑う。
「だから評判はよかったですよ。うちの親も言ってましたから。うちの町には峰岸さんがおってくれてよかった。隣町は病院がないから大変だ、って」
「息子さんがいましたよね?」
「雅彦さん?」
「そう、雅彦さん」私はたずねる。「どんな人でした?」
 秋元さんは首をかしげる。「近所だから知ってはいますけど、あたしとは十歳も離れていますからね。一緒に遊んだりしたことはありません。学校帰りに見かけるぐらいで……でも、まあ、狭い町ですからね、聞いたことはありますよ。成績が悪いとか、痴漢して捕まったとか、まあ、それは冤罪だったらしいんですけど、ゼリーはお嫌い?」
「ゼリー?」
「ゼリー」と秋元さんはテーブルの上の果物ゼリーを指さす。
「好きです」と私はこたえた。本当は好きでも嫌いでもなかった。
 まるごとブドウとナタデココだ。
 口に運びながら言う。「病院は継がれなかったんですね、雅彦さん」
「そうですね。でも、それは雅彦さんの問題というより、先生の考えだったらしいですよ」
「先生というと、峰岸努さんですね」
「そうです」
「それはどうしてでしょう?」
「さあ……時代じゃないですかね。そのころには駅前に大きな病院ができてましたし、あたし自身も親を大きな病院に連れて行ったりして」両手を添えてお茶を飲む。「一度ちがう病院に行くと、なんだか行きづらいでしょう? 後ろめたい気分になって」
「ありますね。散髪屋さんなんかも、いつもとちがう店に行くと、裏切っている気分になること」
「そうそう。町のみんなが同じだと思うの。先生に会わないように、もし会ったら、元気なふりして、本当は駅前の病院に行ってるのに。町のみんなで秘密を共有しているみたいな不思議な感覚」
 と秋元さんの口が止まる。天井を見あげた視線のまま、電池が切れたみたいに固まる。
「どうされました?」
「町のみんなで秘密にしていたのは、もう一つ……」
「もう一つ?」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?