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小説/N市の記憶。もしくはその断片。#8 幽霊の正体見たり枯れ尾花 #1

 老後のことを考える年齢になってきた。
 世の人々はどうしているのだろうか? 蓄えがあるのだろうか?
 若いころは死ぬことばかり考えていたが、年老いてみたら、生きることを考えはじめた。死は確実に近づいているというのに、不思議なものだ。それならば、若いころから生きることを考えておけばよかった。
 今日は自慰を二回した。若いころは罪悪感と虚しさがあったが、いまでは大人の週末を有意義に過ごすための趣味だと考えている。
 下半身裸のまま、窓辺に立って珈琲を飲む。
 至福の時間だ。
 そろそろ真剣に、老後のことを考えなければならない。

 条件としていた二週間が過ぎた。
 当初、私は調査に消極的だった(二週間という条件をつけたのも、私のほうからだった)。しかし現在では、納得がいくところまで調査を続けたい。続けたいが、調査を続けるには費用が発生し、これを生業としている以上はボランティアというわけにはいかない。調査に大きな進展はなく、手がかりもない。あとどれだけ続ければ——、という見込みもない。
 田沼氏に連絡し、正直に現状を報告する。
 もう二週間、調査期間を延長し、そのときにまた、調査を続行するか、取り止めにするか、判断することに決まる。

 最大の目的である田沼文乃の行方がわからない。生きていた場合を想定して、同業の知人に連絡する。正式な依頼ではないので本腰を入れて探してくれることはないだろうが、何かあれば連絡ぐらいはくれるはずだ。
 そうしておいて、私自身は殺人事件を追う。こちらの線で田沼文乃につながることは、すなわち彼女の死を意味するが、田沼氏も当然そのことは覚悟されているだろう。生きているに越したことはないが、生きているのか、死んでいるかわからないまま、孫娘を想い続けることも苦しい時間に違いない。信号を渡る彼女を見つけて、走って追いかけたら、まったくの別人だった、と田沼氏は笑いながら話してくれた。
 目が悪くなって、と言っておられたが、それは間違いだろう。
 解放されない気持ちが彼女の幻影を見せるのだ。
 幻影といえば、黄魂山に幽霊が出るという。

「気持ち悪くて、あまり思い出したくないんですけど」と前置きして、N大学二年生の戸塚絢は話しはじめる。
 こちらとしては事件のことが知りたく、たしかにN大学裏の雑木林について知っていることはないかとたずねたのだが、心霊体験を聞きたいわけではなかった。
 しかし私の調査方針として、来るものは拒まずだ。不要な情報は、不要とわかったときに捨てればいい。
「奢りですか?」
 話しはじめる前、戸塚絢は私の顔を覗きこむようにして言う。私が頷くと、彼女はこの喫茶店の名物らしいカレーパスタを注文した。
 食べ終わると、彼女は紙ナプキンで口元を拭いた。

 昨年の暮れ、雪が降りそうな十二月の午後六時のことである。
 所属しているテニスサークルの活動——年末最後の大掃除のため、戸塚絢はN大学に来ていた。N大学から裏手の雑木林にいたる道の途中に、大学が保有するテニスコートが二面ある。この季節になると、雑木林から大量の枯葉が舞いこむ。
 枯葉を掃き集め、ビニール袋に詰めていく。いっぱいになったビニール袋は結んで、物置きの前に集めておく。帰宅するときにまとめて、N大学構内のゴミ処理場に運ぶつもりだった。
 いつのまにか、午後六時になっていた。作業に集中していたわけではない。ほとんどの時間はサークルの仲間との雑談に費やされた。暗くなりはじめてから、ようやく掃除をはじめた、と言っていい。
 誰かに呼ばれたような気がして、顔をあげる。
 誰もいない。
 いや、誰もいないはずがない。サークルの仲間たちはどこに行ってしまったのだろう?
 再び、誰かに呼ばれる。たしかに呼ばれた気がする。雑木林のほうだ。
 十二月の午後六時、あたりはすっかり暗くなっていたが、怖い感じはしなかった。時間にすればまだ夕方で、心細いと感じる時間にはまだ早い。
 歩いていく。
 ゆるやかな坂道が公園まで続いている。アスファルトに敷き詰められた枯葉が、踏むたびにみしみしと音をたてる。等間隔にならんだ街灯がその下の夜道をぼんやりと照らし、その周囲の闇を色濃くしている。
 また、声が聞こえる。やっぱり公園からだ。
「よく考えたら、おかしいんですけどね」と戸塚絢は言う。「そんな大きな声じゃないんです、聞こえてきた声って。隣にいて呼びかけてくるぐらいの普通の声で。それなのに、公園から聞こえてくるような気がしたんですよね」
 芝生の公園まで歩いた。
 あれ?
 誰だっけ?
 知っている人間——サークルの友人がいるものとばかり思っていたのだが、公園にいたのは知らない女だった。
 芝生のまんなかに立っていて、かろうじて女性とわかる。公園のまわりにある街灯の光が微かに届く距離で、髪が長く、真冬だというのに、ノースリーブのワンピース(?)を着ている。戸塚絢の視界には粒子の荒い監視カメラの映像のように、女の輪郭が滲んで見える。
 知らない女がこちらに気づく。
 そのとき、直接心臓を鷲掴みされたみたいな恐怖が、戸塚絢の全身を貫いた。
 やばい! なんか知らんけど、やばい!
 女が一歩足を踏み出すのと同時に、戸塚絢は走りはじめた。来た道を全速力で引き返す。
 女は暗がりのなかだった。だから表情なんてわかるはずがない。なのに、女の表情が脳裏にこびりついて離れない。泣いている。顔をくしゃくしゃにして泣いている。
 女が追いかけてきているのか、わからなかった。振り返る勇気はなく、いったん走りはじめると、止まることができなかった。
 N大学前の大通りまで走ると、人の気配があった。
 時間を確認する。まだ午後七時。
 息を整えながらあたりを見まわすと、コートにマフラーを巻いた人々が帰宅を急いでいる。通りには車のクラクションが渋滞している。
 ここには人がいる。ここには時間の流れがある。
 それなのに落ち着かない。
 だいじょうぶ。きっと誰かが助けてくれる。
 誰が? 何から? あの幽霊女から?
 バカ言え!
 地下鉄の階段を駆けおりて、電車に飛び乗る。同じ車両に乗っている人たちの声が聞こえる。笑い声が聞こえる。それが耳が詰まっているみたいに小さく、自分が存在しているレイヤーとは別階層の出来事みたいに聞こえる。
 何かが映りこむような気がして、地下鉄の窓ガラスが怖くて見れない。
 何かがついてきている!
 何かがついてきている!


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