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掌編小説/桃を壊す

 この人、わかってる。
 一つだけ傷んだ桃のことだ。

 近所のスーパーマーケットは、歩いて五分、自転車で二分。集会所の前を少し早足で駆けぬけて、レンタル家庭菜園みたいな横を通って、コンビニを一つ歩き過ぎたところにある。今年できたばかりのスーパーマーケットだ。広い駐車場があり、クリーニング店と散髪屋が併設している。
 日に一回は必ず行くようにしている。午前中と夕方、日に二回行くこともある。暇だからだ。
 桃は、そのスーパーマーケットの自動ドアが開いてすぐの棚に陳列されている。

 人さし指の使い方が絶妙なのだ、と思う。

 桃は一つ一つ、網目になった発泡スチロールに下半分を覆われて、丁寧にならべられている。細かい産毛がびっしりと生えた皮は薄く、淡黄色の表面にピンクがかった赤色、内出血みたいな赤色だ。そのなかの一つの桃が傷んでいる。
 わたしは最初、世のなかにはひどいことをする人がいるもんだ、と思った。どう見ても、指で押されている。指で押された部分だけが凹んで、茶色く変色している。
 一玉298円。仕入値が八掛けとして238円なので、一玉あたりの利益が60円。簡単計算で四玉売って、ようやく廃棄されるだろう一玉分の仕入値をまかなうことができる。本当はもっと諸経費とかあって、五玉とか売らなくてはいけないかもしれない。それで儲けではなく、ようやくスタートライン。これはもう許されざる犯罪だ。
 見ているうちに、怒りがふつふつとわいてきたのだが、
 もしかしたら? ——と、ふと思った。

 桃を手にとって、じっくりと検分する。
 まずは親指だ。桃のお尻を確認するようにさわりはじめたことがわかる。優しくマッサージするように撫ではじめている。指先には、さわさわとそよぐ産毛の感触があったはずだ。瑞々しい果肉だけでなく、毛深い表面さえも慈しむように、ゆっくりと揉みほぐしている。

 愛情を感じる。
 愛おしさゆえに、イケナイと知りながらも抑えられない愛を感じる。
 愛のない人間に、こんなさわり方ができるだろうか? いや、できまいて。
 買うことができない何かしらの事情があったのだ。誰にでも事情はある。
 たとえば、持ちあわせのお金がなかった。いやいや、それはない。298円だ。たいていの紳士の財布には、298円ぐらい入っている(と、わたしはこの犯人を男性に限定していることに気づく。現実的には非常識なおばさんの可能性が高いが、ここではあえて、その可能性は削除させていただく。理由はない。理由をつけるとしたら、女の指はもっと野蛮だから)。
 たとえば、奥さんと一緒だった。桃を買ってもいいかと話したが、奥さんは渋る。女というやつは、自分が欲しくないものに対しては財布の紐が固い。男は愛を伝える権利がないことを知る。それでも諦めきれず、桃売り場から立ち去ることができない。
 今日のわたしは調子がいい。

 桃がリラックスして、全体が弛緩したところで、完全に油断したところで、ようやく、人さし指を使いはじめている。

 このタイミングも絶妙だ。これ以上早かったら、雑だな、と思うし、これ以上遅かったら、気持ちが冷めていく、すれすれの頃合い。

 と気づくと、ビッグ・シスターがわたしのことを見ていた。
 わたしはサッと傷んだ桃を買物カゴに入れると、そそくさとレジに向かった。
 店員に「取り替えましょうか?」とたずねられたが、わたしは黙って首を振った。

 家に帰ると、目深にかぶった帽子をドアノブにひっかけて、黄ばんだポンチョを脱いだ。アパートの部屋は蒸し蒸ししていて、窓を開けたくなるが、目の前にそびえ立つマンションにはイジワルな双子の兄弟がいるので、それもかなわない。同じ顔をしているので、もしかしたら、五つ子とか、六つ子かもしれない。ホクロの位置がちがうやつがいるので、少なくとも二人以上はいる。
 とにかくカーテンを開けることができないので、扇風機をつけて、からだの汗をタオルで拭いて、どうにか暑さをやり過ごす。それから、どれにしようか迷ったが、数少ない食器から、パンの日にもらった白い小皿を選んで、その上に買ったばかりの桃を置いた。

 さ、つづきだ、つづき。

 鎮座した桃と向かい合う。
 中華料理屋さんのテーブルみたいに小皿をまわして、さまざまな角度から鑑賞する。産毛の先にたくさんの水滴をたくわえている。傷んだ茶色はぬかるんで、指の形がわかるぐらい執拗に押されている。

 数分後、わたしはついに確証を得る。
 ここからだ。
 果肉の感触をたしかめるように、人さし指で軽く表面を押している。弱々しい弾力、というより、抵抗もなく凹んでしまった危うさに驚き、一度は人さし指が遠ざかる。皮の下から果汁が滲みはじめている。男は不安になり、その場を離れようかと考える。あたりを見まわすが、奥さんの姿はない。彼女は冷凍食品を物色中。
 男の視線が再び、桃に戻ってくる。人さし指でつつく。とんとんとノックする。

 このあたりの葛藤も、わたし好みだ。

 どんな人かと想像してみる。
 最初は、結婚したての若い男性を想像していたが、紺色のサマーニットを着て、シャツのボタンを首元までとめていそうな——しかし、わたしの推理が正しいなら、これはもっと年上だ。この人さし指は熟練されて、洗練されている。離婚どころか、再婚まで経験してしまっている。

 渡辺謙かもしれない。

 唐突にそう思った。
 あのスーパーマーケットに来たのかもしれない。ハリウッドから。
 そう思うと、彼なら食べ物のあつかいにも慣れているかもしれない、となぜか腑に落ちたが、自分でも飛躍しすぎて、その妄想はすぐに打ち消した。

 人さし指は、少しずつ大胆になっていく。その動きをトレースするように、わたしの人さし指も動きはじめる。
 強く押してみた。
 果汁があふれて、ぼたぼたとテーブルの上にこぼれた。

 赤みを帯びた肌色の果肉に、わたしの指が沈みこむ。
 生々しい背徳感。
 指に吸いつく。繊維がまとわりつく。
 ぞくぞくする。
 まるで自分を壊している。

 そのあとは、考えられるだけのことを試した。
 握ってみると、むっちりとした子犬のような感覚だった。わたしの掌のなかで、きゅうきゅうと悲鳴をあげた。台所からナイフを持ってきて乱切りにしてみた。手を使わず、それこそ犬のように食べてみたりした。

 午前二時。
 わたしの目の前にあるのは、悲惨の運命をたどった桃の、かつて桃と呼ばれていたものの成れの果てだ。思いのほかグロテスクな種をこじ開けて、解剖した跡も見てとれる。悪行のかぎりを尽くしたという感じ。
「粉っぽいときあるじゃん。それが苦手だったんだよね」と彼は言った。
「ああ、しゃりしゃりするとき、あるね。粉々のポリマーみたいなやつでしょ?」
 わたしはテーブルに頬をつけて、なぜか彼との会話を思い出している。
「ポリマーって?」
「あの砂みたいなやつでしょ? なんかザラザラして舌に残るようなやつ、ポリマーでしょ?」
「いや、よくわからないけど」
「それ、たぶん、ポリマーだよ」
 いま思えば、あのとき、わたしはただ、ポリマーという言葉を使いたかっただけだ。
 それに彼と話していたのは、桃ではなく、スイカだった。


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