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小説/N市の記憶。もしくはその断片。#22 悪霊たち #1

 鬱蒼と茂った森を歩く。
 木々の幹の隙間から、ときおり太陽の光がこぼれる。霧がかった森のなかに姿を現し、幾千もの柱のように光の帯が降りそそぐ。
 姿を見せない動物たちが騒いでいる。
 朽ちた鳥居の前に立つと、やはり身震いがする。
 この先に何かがある。いや、何かがいる。
 ——と、背後から拍子木を打つ音が聞こえてくる。私は振り返ることもできず、力の入らない膝が震えはじめるのを感じる。汗で濡れたシャツが背中に張りつく。
 すうっと、私の横を何かが通りぬけていく。
 そよいだ風の、あまりの冷たさに全身に鳥肌が立つ。
 冷たい空気が通り過ぎた後には、私の前に、黒くて巨大な何かが浮いている。鐘のような形、インドの寺院で見かけるシヴァリンガのように見える。輪郭が定まらないのは、高速で回転しているせいだ。空気との摩擦によって生じる音が、拍子木を打つように響く。
 ゆっくりと移動する浮遊物に誘われて、私は朽ちた鳥居をくぐりぬけてしまう。

 目覚めると、頭が割れるように痛んだ。
 また同じ夢だ。
 黄魂山をおとずれてから、毎晩この夢を見る。何かを暗示しているようだが、そもそも浮遊する物体が何なのかがわからない。神なのか、悪霊なのか——どちらにせよ、よい兆しではないだろう。
 黄魂山に行ったのは、もう一週間前の話だ。
 結局、鳥居の先には何もなかった。鳥居の先も同様に苔むした石段が続き、少しずつ太陽の光が届くようになり、急に視界が開けてN大学が所有している気象観測施設が見えたときには、どちらかといえば、物足りない気分だった。
 しかし、それ以来、体調が悪い。重度の肩凝りに悩まされ、原因不明の吐き気に襲われる。病院にも行ったが、体に異常はなく、ただの〈疲れ〉と診断された。もしも疲れだというのなら、その癒し方を教えてほしい。この一週間、ホテルの部屋で横になっているだけだが、日に日に疲れが増していく。
 物音がして、微睡から目覚める。
 いまでは慣れ親しんだホテルの天井が見える。
 何時なのかわからない。遮光性のカーテンは一筋の光も通さない。夜かもしれないし、朝かもしれない。
 再び物音がする。ユニットバスの扉が開いたような気がする。
 何かがいる?
 しかし、それを確認しようにも体が動かない。首を傾けることさえできない。
 ユニットバスから何かが出てくる気配がする。
 足音が近づいてくる。
 不純物を溜めこんだ汗がどろりと脇の下を流れる。声を出すこともできない。
 何かが近づいてくる。
 覆いかぶさるように、私の顔を覗きこむ。

 近所に新しく家が建って、その家の前だけが新しいアスファルトに変わっている。
 息をひそめて。
 誰にも見つからないように。
 幼いころ、死を考えると宇宙を覗きこむような気がした。あれは死ではなく、自分が死んだ後の永遠が怖かったのだろう。
 静かに。
 鬼が探しに来る。


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