小説/N市の記憶。もしくはその断片。#9 幽霊の正体見たり枯れ尾花 #2
大学生になり、戸塚絢は一人暮らしをはじめた。N市生まれのN市育ちで、ほんとうは一人暮らしの必要なんてなかった。実家から通っても、N大学までは三十分と通学圏内だったが、少しでも勉強の時間を多く持ちたいと両親を説得し、N大学まで五分のマンションを借りたのは、ただただ両親の目から離れて、怠惰な生活を送りたかったからだ。
マンションの部屋に飛びこむ。すぐに鍵をかける。
しばらく扉に耳をあてて、外の様子をうかがう。
何も聞こえない。足音は聞こえない。
幽霊だから、足音なんて聞こえないかもしれない!
とにかく、何かがついてきている気配はない。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、ベッドの端に腰を下ろす。
呼吸を整えながら、部屋のなかを見まわす。
見慣れた風景だ。
白い壁に貼られた〈Ride On Time〉のポスター。夕陽をバックに山下達郎氏が、わたしを指差している。友人には大笑いされたが、わたしは本気だ。
机の上のノートパソコン。
その隣には本棚があって、好きな漫画がならんでいる。
ベランダの窓にかかっているカーテンは、友人と二人で何軒もまわって選んだものだ。灰色と黄緑の恐竜柄——
おさまりかけていた動悸が、再び胸を締めつける。
カーテンが不自然に膨らんでいる。
牛の乳を搾る手つきで弄られるように、心臓がざわつく。
おそるおそる視線を下に向ける。
カーテンと床の隙間に、男物の革靴が見える。
そこで戸塚絢は気を失ってしまったのだという。
目覚めるとまだ午後十一時で、彼女はすぐにマンションを飛び出して、近隣に住んでいる友人に連絡し、その日は泊めてもらうことにした。
戸塚絢の話を聞き終えて、私はホットコーヒーを口に含む。
事件発生後、その場所に幽霊が出るというのは、よくある話だ。交通事故、自殺、殺人——無念の死を遂げたのだから、恨みや未練もあるだろう。場合によっては、化けて出るってことだってあるかもしれない。
しかし、たいていは生者側の問題に思える。戸塚絢も事前知識として殺人事件のことを知っており(彼女自身は最初、恐怖は感じていなかったと話しているが)恐怖までは到っていない不安から何かを連想したのではないか?
人間の脳みそは、正確な情報を視界に映しているわけではない。補正が加えられているし、間違いを犯すことだってある。
意識と想像によって、存在しているものが見えなくなり、逆に、存在しないものが見えることもある。
それが恐怖という感情と結びつくと、幽霊という幻影を創り出す。
こんな話がある。
霊感が強いという友人がいた。彼の霊感は有名で、「ほら、あそこに子どもの幽霊が立ってるよ」と言って女の子を怖がらせたり、「本当に見えるのか?」とたずねると「生きている人間より多いんだぜ、いままでに死んだ人間のほうが」とこたえたりする。それはそうだろうが、質問の答えになっているとは思えない。
建築関係の仕事をしていた彼は、あるとき、インドに単身赴任することになった。
戻ってきた彼は、これまでの自分の意見を覆して、幽霊など存在しないと言う。
理由をたずねると、インド人だって、たくさん死んでいるはずだ。しかし、インド人の幽霊は一度も見ることがなかった。それはたぶん、僕がチャパティを売り歩く陽気なインド人しか知らなかったからだ——と、少しやつれた顔で語った。
そういうことなのだと思う。知らなければ想像することができず、想像できなければ、幽霊さえ見ることができない。
もしも戸塚絢の体験に、他の心霊体験と異なる点があるとすれば、マンションに現れた男物の革靴のくだりだ。殺害されたのは女性が二人——幽霊になって現れるのは、女性ではないのか? この男は誰なのか? もしかして犯人か?
しかし、逮捕されている二人の犯人は死んでいない。
死んだ男。
死んでいる男。
死んだのは誰だ?
私はため息をつく。
考え過ぎだ。殺人事件と、もしかしたら自分も殺されるかもしれないという戸塚絢の恐怖が入り混じった心霊体験なのだろう。
「わたしもそう思うんですけど、怖かったのは本当で」と戸塚絢が言う。
戸塚絢はそのために一人暮らしをしていたマンションを引き払って、現在は実家で暮らしている。よほどの恐怖でないかぎり、生活を変えるほどの行動は起こさない。
「でも、殺人事件があってからじゃないですよ、黄魂山に幽霊出るの」
「どういうこと?」
「もっと前からです、幽霊が出るの」と戸塚絢は落ちてきた髪を耳にかける。「おばあちゃんが言ってましたもん。呼ばれるって」
「呼ばれる? 誰に?」
「わたしも詳しくはわからないんですけど、呼ばれるって。黄魂山に行ったら呼ばれるから行ったらいけないって、子供のころに言われてたんですよね」と言ってから、戸塚絢はくすりと笑う。「まあ、そう言われても、家から黄魂山までバスに乗って三十分はかかりますし、子どもの移動距離を越えてますよね。子どものころは、黄魂山がどこにあるのかも知りませんでしたし」
殺人事件が起こる前から、黄魂山には幽霊の話があった。
もちろん、永い時間のなかで色んなことがあっただろう。不幸な出来事もあったに違いない。何も起こっていない土地を探すほうが難しい。
朽ち果てた鳥居を思い出す。
私は「来るな」と言われたような気がした。
戸塚絢は呼ばれた。
殺害された二人も呼ばれたのか?
「おじさんって、怪談集めてるんですか?」と戸塚絢が言う。
「いや、そういうわけじゃないけど」
「わたし、もう一つ知ってますよ」
「もう一つ?」
「最近、いちばん盛り上がってるやつ」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?