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小説/N市の記憶。もしくはその断片。#24 朝
目覚めると、戸塚絢がソファで膝を抱えて眠っている。
私の視線に気づいたのか、彼女は瞼をこすって、大きく背伸びした。
「おはよう」と私は声をかける。「いてくれたのか」
「それはそうでしょ」と戸塚絢があきれた顔で言う。「わたしがいなかったら、どうする気だったんですか?」
「たしかに」と私はうなずく。
私の両手両足は、ベッドに縛りつけられている。戸塚絢がいなかったら、ホテル従業員に発見されるまで、この状態だ。発見されたときの弁明も考えておかねばならない。
眠り足りないあくびをしながら、戸塚絢が私の手足を縛りつけているロープを解いてくれる。
「昨晩、私はどうだった?」
記憶がない。映画〈エクソシスト〉みたいに暴れたのではないかと不安だったのだが、「すやすや眠ってましたよ」と戸塚絢は言った。
縛られて安心して、気絶するように眠った。
一週間、ずっとホテルの部屋で横になる生活をしていたのだが、久しぶりに眠れた気がする。微かに石鹸の匂いがした。戸塚絢の匂いだろうか、と見ると、彼女はお尻を向けて、私の足を縛りつけるロープを解くのに苦戦している。
「ありがとう」と私は戸塚絢のお尻に向かって言う。
「何ですか? 急に」
あやうく君を殺してしまうところだった、とは言えない。
「いや、迷惑かけたなって思って」
「ほんとですよ、縛ったら眠りはじめるって、どんなプレイなんですか」
私は苦笑いする。
空腹を感じて、戸塚絢を朝食に誘う。
二人で〈なか卯〉のカツ丼を食べる。
私に憑いたのは、何だったのか? 黄魂さんと呼ばれる土着の神か? 生贄になった女性たちの報われない想いか?
一つ、思ったことがある。峰岸邸の二階にあった神棚の部屋——あの部屋にこもって、峰岸敏彦も殺人の誘惑に耐えようとしていたのではないか? あの部屋で一人、怨霊と戦っていたのではないか?
「生贄って、そういう文化って、どうしてあると思う?」
こたえを求めていない質問だった。ふと口を割って出てきただけだ。
「どうしてでしょうね」と戸塚絢はカツ丼を食べた後、お茶を飲みながら言う。「牛を殺して、神様が喜ぶとも思えませんしね」
「では、生贄を求める神は、神ではなく怨霊?」
全能な神が生贄を求めるのは不条理な気がする。見返りがなければ、神は人を救ってくれないのか? 神はそういった俗欲から超越した存在ではないのか?
「ああ、それはわからないです。いろんな神様がいて、それぞれ考え方が違うんじゃないですか?」
生贄——
神への供物として、生きた動物を捧げる。
人々は雨を乞う。豊作を願う。生きた動物を身代わりにすることで、災いを遠ざける。
峰岸に殺害された田沼文乃——彼女が死ななかったら、もしかしたら予期せぬ災いが起こったのかもしれない。もっと大勢の人が死ぬことになる災いを、田沼文乃の命を捧ぐことで、神はお赦しになられたのかもしれない。
ご飯の上にのっているトンカツ——これも、もしかしたら生贄なのかもしれない。私が生きるために捧げられた生贄だ。もしもカツ丼にトンカツがなかったら、と考える。私は怒るだろう。店員に声を荒げるぐらいのことはするかもしれない。
私は、戸塚絢を生贄にすることを拒否した。
トンカツがのっていないカツ丼。
神は、私を許すだろうか? それとも怒り狂うだろうか?
「もう行きますね」と戸塚絢が立ちあがる。
「ああ」と私はこたえる。
小さなリュックを背負った後ろ姿が店を出ていく。
すぐに戻ってくる。
「ああ、って何ですか?」戸塚絢が怒っている。「ふつう、約束とかするでしょ」
「約束?」
「次にいつ逢うとか、そういう約束」
戸塚絢の顔を見つめる。小鼻が少し膨らんでいる。
朝起きたときから、ずっと気になっていた質問をする。
「眠ってたとき、何かした?」
「えっ」と戸塚絢は表情を変える。頬を赤くして、小さな声でこたえる。「さあ、何もしてませんけど」恥じらいを隠して唇を噛む。
私はたずねる。「次は、いつ逢える?」
「ちょっと待ってくださいね」と戸塚絢はスマホを操作しはじめる。すぐにポケットにしまう。「最短だったら、いまからですけど?」
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