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小説/N市の記憶。もしくはその断片。#15 玄関の臭い家 #2

 仕事柄、入居者が退去したばかりの部屋に入ることがある。
 退去確認が主な目的だが、築浅物件の場合には、業者に依頼せず、自分たちで掃除をすることもある。
 不思議なのは、同じマンションでありながら、それぞれの部屋で臭いが異なり、その臭いを嗅ぐだけで、どんな人間が住んでいたのかわかるところだ。
 単身赴任、三十代男性。
 母子家庭、小学生の男の子。
 大学生の一人暮らし、女性。
 臭いとは何なのか? 
 最近、これは人間の皮脂ではないかと考えるようになった。フケや皮膚や爪の破片——粉末状になって空気中に飛散している老廃物たちは、元々は脳みそと同じ細胞からできているのだから、記憶があっても不思議ではないと言っていたのは誰だっけ? もしかしたら誰も言っていないかもしれないが、そうした皮脂を媒介して、鼻から、口から、私は誰かの記憶に感染する。
 また逆に、私の記憶は誰かに食べられる。
 記憶を共有することで、人間社会が成立しているのではないか、そんな気がする。

 峰岸邸の門扉は閉まっており、チャイムを押しても応答はない。おそらく鳴ってもいないだろうし、誰も住んでいないことは調査済みである。峰岸が死んでから、峰岸家の遠縁、峰岸亨の所有となっている。峰岸亨はF県に住んでおり、いずれ手放すつもりだろうが、いまのところは空き家である。
 門扉越しに峰岸邸の玄関が見える。錆びた看板に〈峰岸医院〉という文字もかろうじて読み取れる。玄関までの石敷きのあいだには雑草が生い茂り、永い期間、人の行き来がないことを物語っている。
 加熱式タバコを掌で隠すようにして吸いながら、峰岸邸の塀にそって歩く。
 手入れされていない庭木の緑が見える。
 その奥に峰岸邸の上部が見えるが、西洋的なバルコニーがあり、窓には厳重な雨戸があり、しかし屋根は純和風な瓦屋根で、その突端では青銅の風見鶏が風に吹かれている。
 明治期に流行した和洋折衷建築なのだろう。現在では、ペンキが剥がれ、バルコニーの柵は崩れているが、新築時にはさぞかしモダンな建物だったに違いない。
 このなかに答えがある、と思う。
 峰岸邸の裏には勝手口があり、門のかんぬきに数字錠がぶら下がっているだけだった。道具があれば簡単に切断することができそうだ。夜なら飛び越えることもできるだろう。

 私は依頼者の田沼氏に連絡した。
 ここまでにわかったことを報告し、次に私がしようとしていることは、もしかしたら田沼さんに迷惑をかけてしまうかもしれない、と伝えた。
「何をなさるんです?」
「不法侵入です」と私は正直にこたえた。
「犯人の家に?」
「望月さんを殺害し、自害した犯人です。文乃さんの行方不明と関係しているかは、まだわかりません」
「でも、文乃が住んでいた町と同じなんですよね?」
「そうです」
 田沼氏に反対されても、私は峰岸邸に踏みこむ決意を固めていた。そうしなければ、これ以上進めない気がしたし、合法的な手段があればいいのだが、私にそんな権限はなく、また、誰かを説得するだけの根拠もなかった。
 万が一、近所の人に通報にされて警察のお世話になった場合、田沼さんのところにも連絡がいくかもしれない。何を訊かれても、知らなかった、とこたえてくれたらいい。それを説明するための電話だったが、田沼氏は言った。
「私も行かせてもらえませんか?」
「えっ?」
「あなたの話を聞いて、私はその峰岸という男が文乃を連れ去ったのだと確信しました。私も行って、その男の家を見てみたい」
 私は繰り返し、峰岸が田沼文乃の行方不明と関係していたとしても、何も発見できない可能性が高いこと、峰岸はすでに死亡しており、田沼文乃がそこにいるわけではないと説明したが、最後まで田沼氏は自分の意志を曲げなかった。
 田舎の人は頑固なところがある。
 結局、私は田沼氏が同行することを渋々承諾したのだった。


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