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小説/N市の記憶。もしくはその断片。#18 田沼文乃

 夏休みのことだ。
 祖父の家に三日間ほど滞在した。その初日、従兄弟たちは翌日から来るというので、私はすっかり退屈していた。誰もいない部屋を見つけて、持参した少年ジャンプを読んでいた。
 しばらくするとそれにも飽きて、畳に頬をつけて、下半身をもぞもぞとしながら、その部屋に置かれた仏壇を見ていた。金色に塗られたそれは、家になかったので珍しかった。
 と、何かが動いた気がする。
 足が見えた。
 仏壇の奥から、青い足が片足だけ出てきた。
 裸の足だ。男の人の足だと思う。
 青い足は太腿まで出てくると、それ以上は動かなかった。見えない胴体があって仏壇から出てこようとしている感じではなく、仏壇そのものから足が生えてきたように見えた。
 しばらくすると、足はするすると引っこんで消えた。
 残された私は——頬にざらつく畳の感触も、遠くから聞こえる大人たちの笑い声もそのままだった。「かゆ」と思って、自分の腕を見ると、肘裏のあたりがぷっくりと腫れはじめていた。
 私は爪先で、十字の紋様を入れた。
 それでも痒みはおさまらず、何本も、何本も、線を刻んだ。

 峰岸邸からは、白骨化した遺体が見つかった。鑑定の結果、田沼文乃と特定される日も近いだろう。
 あの夜、私たち——私と田沼氏は、峰岸邸の庭を掘り返した。自分たちが不法侵入していることも忘れて、峰岸家の物置きから勝手にシャベルまで拝借した。
 毎日、農作業をしているという田沼氏は道具の扱いに長けていて、「もっと腰を落としたほうがいいです」「てこの原理ですよ」と私に教えてくれた。状況にそぐわぬ、田沼氏の楽しげな表情が印象に残っている。
 不思議な夜だった。何一つ根拠がないのに、ここに田沼文乃が眠っていることを疑わなかった。それは田沼氏にも伝染したようで、私が「ここを掘ってみましょう」と提案したとき、質問することもなく頷き、彼は率先して穴を掘りはじめた。道具が必要だな、と呟き、峰岸家の物置きからシャベルを持ってきたのも田沼氏だった。

 首筋の汗を拭う。
 午前四時、ついに田沼文乃が目覚めた。
 右手が出てくる。青白いその手は痩せ細り、土や泥を掻きむしった指先は潰れて、黒く爛れている。空を掴むように短くなった指をひろげて、掌をのばす。
 やがて顔も出てくる。
 見るも無惨な状態だ。目は落ち窪み、鼻は腐り、唇は失われて前歯が剥き出しになっている。何年も土のなかにいたのだ。写真で見た印象とは異なるに決まっている。
 何かを告げようと、すぼまった口を動かす。
 しかし言葉にはならない。
 苦しげな泣き声が私の鼓膜にこびりつく。
 田沼氏がその頬をそっと撫でる。
 不思議な夜だった。月明かりのせいかもしれない。
 田沼氏が白骨化した頭蓋骨を抱き、ついた土を懸命に払いのけている。

 翌朝(同日の午前六時)、私たちは警察に届け出た。これが田沼文乃の骨だとしても、掘り出したのがその祖父だとしても、社会的に身元不明とされる遺体を勝手に持ち帰るわけにはいかない。
 警察では、どうしてこの場所を掘ったのか? どうしてここに遺体があることがわかったのか? と幾度となく問いただされた。
 こたえようがない。
 ここに遺体があるなんて知らなかったのだから。
 警察による再調査がはじまった。ここからは警察の領域であり、私みたいな人間は蚊帳の外だ。情報提供してくれる都合のよい友人も、警察にはいない。
 田沼文乃は白骨化した遺体になって発見された。それは不幸な結末だったが、田沼氏からの依頼は概ね完了したと言える。
 二人の女子大生が殺された事件と峰岸の関連は、結局わからずじまいだ。
 シン・プロゴルファー猿さんこと、望月倫太郎さんが何をもって峰岸を犯人と思ったのか? どのようにして峰岸の存在を知り得たのか? 本当の事情を話して望月倫太郎さんの部屋を探索させてもらうことも考えたが、ここからは私個人の好奇心でしかなく、息子の部屋を保存したいと願う母親の気持ちを考えれば二の足を踏む。

 ——犯人がわかってしまった。

 いまでも、そのツイートを眺めることがある。
 いつか言ってみたい文章だ。
 若き探偵と殺人鬼。
 S町駅のホームでどんな会話がなされたのか、知るすべはない。

 とにかく、これで終わりのはずだった。
 問題は——
 警察の調査により、さらに四体の白骨化した遺体が峰岸邸から発見されたことである。


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