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小説/N市の記憶。もしくはその断片。#23 悪霊たち #2

 クッ、クッ、とくぐもった嘲笑が聞こえ、ようやく頭の芯から目覚める。
 目を開けると、戸塚絢が歯ブラシをくわえたまま頬を大きく膨らませて(ちょっと待って、ちょっと待って)と手振りで私に伝えると、ユニットバスに駆けこんでいく。
 口に含んだものを洗面に吐き出す。
 それから堰を切ったような笑い声。
「なんて顔してるんですか、おじさん!」
 ホテルのタオルで唇を拭きながら、戸塚絢が言う。「白目むいて寝てましたよ!」
 笑いがおさまらないようで腹を抱えている。
 私は状況が理解できず、どうして戸塚絢がここにいるのかわからない。
「おじさんが呼んだんじゃないですか」と戸塚絢は言う。「ごめんなさい、歯ブラシ貰いました」
「私が? 呼んだ?」
「そうですよ。どうしても逢いたいって言うから」
「私が?」
「そうです」
「どうしても逢いたいって?」
 戸塚絢は恥ずかしそうに顔を背ける。唇を尖らせて、小さな声で言う。「そう言いましたよ」
 戸塚絢の様子を見て、ますます状況がわからなくなる。
 あわてて自分のスマホを確認する。いまは午後十時。たしかに午後八時に発信履歴がある。私から戸塚絢に向けて、十一分間の通話記録。
 しかし記憶がない。私は眠っていた。電話したのは誰だ?
「おかしなことを訊くかもしれないけど」と私はたずねる。「他にはどんな話をした?」
「他ですか?」
「そう、他に」
「好きだって、わたしのこと」
「私が?」
「そう、おじさんが」
「それで?」
「それで、まあ」と戸塚絢は照れくさそうに細い体をよじらせる。「わたしも好きですよって」

 悪い予感しかしない。
 なぜなら、私の視線は戸塚絢の喉に注がれている。若くて、細い喉だ。性欲と殺意が鎌首をもたげている。その喉を手にしたときの感触——想像しただけで射精してしまいそうだ。
「お願いだ」と私は言う。「縛ってほしい」
 意識が揺らぐ。
 目覚めたとき、自我を取り戻したとき、何が起こっているのか、悪い妄想は加速度的に進む。
 裸になった彼女を想像して興奮している自分が、はたして本当の自分なのか、自分ではないのか、確信が持てない。まるで誰かのアバターになった気分だ。
「いやいや、初めての夜ですよ」と戸塚絢は言う。「おたがいの趣味は少しずつ、でよくないですか?」
「頼むから、縛ってくれ!」
 最悪の事態はすぐ近くまで迫っている。
「マジか」と戸塚絢は呟く。


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