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小説/N市の記憶。もしくはその断片。#11 探偵vs殺人鬼 #2

 宝田孝蔵さんは、勤務している玩具製造会社の帰り、その事件に遭遇した。
「本社があるんです、S町に」と宝田さんは話しはじめる。「実際に玩具を製造してる工場は東区にありまして」
 宝田さんは企画部に所属し、年齢は五十二歳。転職歴はなく、三十年間玩具のことだけを考えてきたという。既存のアニメキャラクターのグッズではなく、宝田さんが働いている会社は、低年齢向けの知育玩具を製造している。
「天然木からですね、ほとんど手作りです」
 話好きのおじさんという印象だ。やわらかい喋り方にも、人の良さが滲み出ている。
 宝田孝蔵さんが二人に気づいたのは、殺された少年の声が聞こえたからだった。
「私は、その犯人のほうですね、男の後ろに立って、電車を待っていたんです」と宝田さんは言う。
 もちろん、その男を犯人と認識したのは犯行後のことであって、犯行前はいつもの変わらぬ風景の一つに過ぎない。
「スーツのね、肩にフケがひどくて。見た目と仕事は関係ないのかもしれませんけど、仕事できないんだろうなあ、って思ったのを覚えています」
 他人にも自分にも無自覚な時間。
 ホームにいる人たちはマスクで顔を隠して、誰が誰だかわからないまま、ほとんどの人がスマホに視線を落としていた。宝田さん自身はスマホを見る文化がなく、目前に立っている男の肩のフケをぼんやりと眺めていた。
「通り魔って言われてますけどね。話しかけてきたのは、少年のほうからでしたよ」
 少年の声が聞こえて、我に戻ったというと大げさだが、初めて二人の姿を認識した。
 マスク越しの声は聞き取りづらかったが、少年の口から「殺人」というキーワードが聞こえたような気がして、意識して耳を澄ました。
「でも、ほとんど聞き取れませんでした」
 少年が一生懸命に何かを訴えていることはわかった。しかし男のほうは、一つの言葉も発しなかった。それでも何度かは頷いていた。顔が横になったとき、その目元を見ることができた。笑っているように見えた。それは馬鹿にして笑っているわけではなく、卒業生の成長を確認し、嬉しく感じている初老の教師、というような印象だった。
「なので、男がナイフを取り出したときには、何が起こっているのか理解できませんでした」
 実際には、男がナイフを取り出した瞬間には気づかなかった。
 ずっと二人の姿を見ていたはずなのに、気づいたときには、少年が下腹部に手をあてて、駅のホームに倒れていた。
 もしかしたら、と宝田さんは考えることがある。その時点で、自分が行動していれば、少年は死ぬことなく、現在も生きていたのではないか——
 しかし、宝田さんは動けなかった。怖かったわけではなく、足がすくんでいたわけでもない。ただただ、理解できなかった。何が起こっているのか——
「言い訳ではありませんが」と宝田さんは顔をしかめてみせる。
 周りの人たちだって同様だった。電車を待つ行列がざわついて乱れたが、それだけだった。スマホを手にしたまま視線だけを向ける者もいたし、スマホを見続けている者さえいた。
 少年は抵抗したが、男が馬乗りになった。
 ナイフが少年の胸に突き刺さる。
 少年の口から嗚咽が漏れる。
 そのときから宝田さんは、自分がひどく冷酷な人間ではないかと考えるようになった。正直な感想として「へえ、人を刺したときって、そんな音がするんだ」という新しい発見をしたときの動物ドキュメンタリーを観ているときと同じ感覚だったからだ。
 想像以上に硬い音が聞こえた。骨に突き刺さったときの音かもしれない。きゅうっと風船が萎むときのような音も聞こえた。ゴム弁が細かく振動するような——大きな血管を傷つけたときには、血が噴水みたいに噴きあがった。
 何回目かのナイフが振り下ろされたとき、ようやく正義感にあふれた男性の一人が犯人に体当たりした。犯人はよろけて、少年から離れると、無表情な顔をこちらに向けた。
 正義感にあふれた男性は興奮状態で、何やら叫んだ。それは野生の雄叫びで、すでに人間の言葉ですらなかった。再度、犯人に挑みかかろうとした。
 しかし、次の瞬間には、犯人は線路に飛び下りていた。
 自殺だったのか、逃げようとしたのか、宝田さんにはわからない。
 宝田さんが聞いたのは、急行電車のブレーキをかける金属音——次に聞いたのは、人間がバラバラになる激しい衝突音だった。

 何かが引っかかっていた。
 宝田さんの目撃談を聞いたその日、常宿にしているビジネスホテルに戻りながら、知っている何かを思い出すことができず、もどかしい気持ちだった。
 私は何かを知っている。聞き覚えのあるキーワードがある。それを思い出せれば、扉が開く。そんな気がする。
 それが何なのか思い出せたのは、ビジネスホテルに戻って、セブンイレブンのカレーを食べて、有名店の監修らしいが、クローブを効かせ過ぎて胃腸薬みたいだったなと思いながら、シャワーを浴びているときだった。
 濡れた体のまま飛び出して、調査結果を記録しているタブレットを手にする。
 すばやく検索した。
 S町駅のホームで十八歳の少年が殺された事件、および犯人が急行電車に飛びこみ自殺した日。
 令和四年五月二十六日。
 そして「犯人がわかってしまった」とシン・プロゴルファー猿さんがツイートした日。
(それが最後の投稿となり、更新が途絶えた日でもある)
 令和四年五月二十六日。
 濡れた髪をタオルで乱暴に拭いながら、何度も確認する。
 同年同月同日。
 この符合が何を意味するのか、考えるまでもなかった。


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