見出し画像

掌編小説/風葬都市ガイドマップ

 街の名前は知らない。
 知っているのは、何百年前に滅んだ街というだけ。
 入口には錆びた看板があり、かろうじて〈…隊を希望され……〉の文字が判読できる。しかし、仮に文字が判読できたとしても、読む人がいなくなった現在となっては、わずかにできた日陰にしか価値がない。
 風に含まれた砂が金属板にぶつかり、絶えずかすかな音をたてている。
 見渡すかぎりの砂の色。アスファルトも、コンクリートも、砂の色。
 一面の砂の色にあって魚の鱗のように輝いているのは、溶けたプラスチックの塊である。砂を払い退ければ、どこにでも見つかる。
 何百年と風にさらされ、砂に磨かれたプラスチック。
 琥珀のように美しい飴色。
 太陽に透かして見る気泡の輝きは、かつての文明の繁栄と滅亡を物語る。

 街は十字路を中心に形成されており、砂に埋もれた道は、一見して道とはわからないが、両側にひしめく廃墟によって、ここが当時の道であったことがわかる。
 十字路の北西ブロックには、百貨店とバスターミナル。東側にはオフィスビルが建ちならんでいたらしい。灼熱の陽射しのなかで現在では朽ち果て、剥き出しの鉄筋をさらしている。
 窓を失ったビルは、まるで白骨化した動物の骨のようだ。
 視線を失った眼窩に宿る、化石となった意識。
 耳を澄ませば、何もない空洞から思慮深い静寂が響きはじめる。
 その静寂を破るように、時おり、廃墟に降り積もった砂が崩れ落ちる。砂は砂の上に落ちて、砂と同化する。そのときに体重六十キロの成人が飛び降りたときと同様の音がする。ファだ。砂が落ちたときに響く音階——音感がないので、正確ではないかもしれない。おそらく、ファの音で落ちてくる。そのほとんどは砂に吸収されて、響くようで響かない音だが、それでも空気のわずかな振動はこの世界に不安定をもたらすらしい。一つの砂が落ちると、二つ目の砂が飛び降りる。二つの目の砂が落ちると、三つ目——連続して、砂が飛び降りていく。ファ、ファ、ファ、ファ、ファ。

 十字路を東に数メートルほど歩くと、何百年前の世界で〈コンビニ〉と呼ばれていた礼拝堂がある。およそ150平方メートルと広くない室内には、コンクリート礫とガラス片が散乱し、そのすべてが塵芥を纏っている。
 何百年もかけて積み重なった塵芥。
 もしも同じ経験をしているならと条件つきだが、小学校の社会見学で行った培養タンパク質工場を思い出してほしい。人工骨格を培養液に浸す。結晶化した細胞がゆっくりと筋肉を構成しはじめる。その過程の、花開いた綿毛のように増殖していくタンパク質——が廃墟を満たしている。もしも教育水準が低く、社会見学のない小学校に通っていたなら、天井も壁も床も、どこもかしこも黴が生えた部屋を想像してくれたらいい。
 当時の人々は、毎日この礼拝堂に通っていたというから、よほど信心深い民族だったのだろう。
 厳かな祈りの時間。
 何百年前の人々は、何に対して祈りを捧げたのか?
 高名なトーマス・テジョン教授の著書「願うな、祈れ!」では、貧困と富裕、そのどちらかが極点に達したとき、宗教が誕生すると書かれていたかと思う。飢餓に苦しむ貧困層と、あり余る富を手にした富裕層が同じ宗教にたどり着くのは、ある種の皮肉にさえ思える。しかし、そのどちらかだけでは宗教は機能しない。貧困と富裕が円を描き、もうこれ以上はない極点で交わった、その一点でのみ宗教は機能する。
 当時の人々が何を崇拝していたのかはわかっていない。そもそも偶像崇拝を禁止していた可能性もある。
〈コンビニ〉は街の各所にあって、調査の結果、現在では多種類の〈コンビニ〉があったことがわかっている。複数の宗派が存在していたということなのだろう。そのことが争いの引き金になったと説く研究論文もある。

 街には地下が存在している。地下一階は飲食店が軒を連ねていたらしいが、もちろん現在では営業していない。地下二階から三階は、用途不明。コンクリートのがらんどうの施設で、貯水を行っていたという説もあるし、墓場だったという説もある。
 陽射しがないことで、地下一階の街並みは保存状態がいい。
 地上の十字路をトレースするように、地下街も十字に建設されている。十字の中心は円形の広場になっており、壁には草花のモザイク画が残されている。旧世界で〈アジサイ〉と呼ばれた植物。完全な形ではない。ところどころタイルが剥がれ落ちている。それでも——と、息を呑む。もしも本当に? と考える。地上には雨が降り、大地には草木が芽吹き、花は咲き乱れ、虫たちは行列をなして植物の種子を運んでいたのだとしたら——
 幻想は儚く砕け散る。
 地上を覆いつくす砂の色。
 黒い煙を吹きあげるドラム缶葬のように、参列者のいない儀式のように終わりを告げる。

 噴水跡に続く道の途中には一冊の文庫本が落ちていて、表紙カバーは失われており、砂を払っても黄土色の本体表紙に、朱色の明朝体でタイトルが書かれている。
〈レモネード池の首無し死体〉

 短い夜が明けて、太陽が南中を通り過ぎたころ、街はおびただしい羽音に包まれる。
 獰猛なバッタの群れは〈清掃員〉と呼ばれる。
 無数の黒点に覆われた空。
 美しい。
 薄く透明な翅に陽光が煌めく。
 まるで星屑が散歩しているように美しい。

 街は少しずつ移動している。
 音もなく、崩れる流砂の速度で遠ざかる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?