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短編小説/スフィンクスは今宵も寝て待て

 お金をかけて戦闘機を飛ばした。実際に町をひとつ破壊した。そこに土偶が運転するUFOを付け加えたらどうなるか、と映画監督は考えた。
〈スフィンクスは今宵も寝て待て〉と題された映画がどれだけ素晴らしい傑作か、ぼくは三時間かけて執念深く話したが、映画ライターの逢沢京子は狐につままれたような顔をしていた。

「その話って、まだ続きます?」
「あと五年ぐらい?」
「観せてもらえたほうが助かるんですけど」
「それはそうだね」
「フィルムは保管されてないんですか?」
「ないなあ」
「DVD?」
「いや、だって、まだ撮ってないから」

「クソったれ」と逢沢京子はぼくの眉間にボールペンを突きつけた。
 テーブルに上半身を乗り出して前屈みになったとき、彼女が着ている白いシャツがたわんで、乳房の渓谷があらわになった。もちろん、ぼくがそれを見逃すはずがなかった。
 まさに一発触発の雰囲気だったが、そのとき、テーブルに置かれた逢沢京子のスマホが震えはじめた。
 ボールペンの矛先をしまって「失礼」と逢沢京子は立ち上がった。

「編集長ですか? 誰ですか、このネタ持ってきたの? まぼろしの映画監督? ただの素人ですよ! 映画なんて一本も撮っていませんよ!
 SNSが生んだ奇才? 知りませんよ、そんなこと!
 だから、この記事は諦めてください! ただの妄想好きの糞野郎なんですから!
 いますよ、近くにいます。
 えっ、聞こえてもいいんですよ。
 インタビュー中、ずっと、わたしのことをイヤらしい目で見てたんですから。
 いまだって、わたしのお尻を見てるはず!」

 ぼくはというと、次回作の構想に余念がなかった。慈愛に満ちた二つのバレーボールが双子の姉妹みたいに飛び跳ねて、次々と人を殺していくバイオレンス・キラー・サスペンスになる想定だった。
 電話を終えた逢沢京子と目が合って、ぼくは氷が溶けたアイスコーヒーをじょろじょろと鳴らした。そのときもぼくは、カンヌの記者会見で二人ならんで、誇らしげに話す逢沢京子の姿を想像していた。
「ええ、主人公のバレーボール、あれ、あたしのお尻なんです」

「今日は、貴重な時間をありがとうございました」
 伝票を奪って、逢沢京子がそそくさと帰り支度をはじめたとき、今度はぼくの携帯が震えはじめたので、カバンを手にした彼女にふたたび座るようにすすめて、「失礼」とぼくは立ち上がった。
 電話の主は、ルームメイトのクロワッサンB太郎氏だった。

「ねえ、今夜は何が食べたい?」
 と鼻にかかった声で、クロワッサンB太郎氏は言った。
「昨日と同じでいいんじゃない?」とぼくはこたえた。
「煮込み炒飯フラペチーノね」
「うん、ぼくはフラペチーノ抜きで」
 と言ってから、ぼくは妙案を思いついた。
「ねえ、あれ、できないかな?」
「狸のふぐり酒?」
「ううん、ちがう。シンクロだったっけ?」
「あれは…」とクロワッサンB太郎氏は言葉を濁した。
「なに?」
「あれは、半年に一回ぐらいにしときなさい、とお医者さんに言われてるから」
「お医者さんに?」
「死んじゃうからって」
「前はいつやったっけ?」
「昨日?」
「そう、昨日だ。B太郎さんの脳味噌つないで、ぐちゃぐちゃに気持ちよくなったんだった」
「うん、思い出しただけでエレガントだね」
「うん、あれは最高だった」
「でも、いいよ」
「えっ、何が?」
「シンクロ」
「でも、死ぬんじゃない?」
「うん」とクロワッサンB太郎氏は言った。「でも、いいよ」

 電話を切って席に戻ると、逢沢京子は頬杖をついてスマホゲームをしていた。鉄の棒を引き抜いて、水を流したり、溶岩を落としたりして、モンスターと遭遇しないように財宝を手に入れる、という広告動画でしか見たことがないパズルゲーム——本当にダウンロードしている人がいるんだ、と思った。

 ぼくは逢沢京子に言った。
「っていうことになったんだけど」
「はい?」
 と逢沢京子はスマホをテーブルに置いて、不機嫌そうな顔を向けた。
「シンクロするってことになったんだけど」
「ちょっと待って。なに、シンクロって? そんな話したっけ?」
 やれやれ、とぼくは手をひろげた。
「どこから話せばいいのかな?」
「知らんよ」
 それでぼくは、ルームメイトのクロワッサンB太郎氏のことから話すことにした。

 男性なら、その名前を聞いたことがあるかもしれない。
 名前を知らなくても、その顔を見れば、思い出す人もいるはずだ。
 クロワッサンB太郎氏は、アダルトコンテンツの動画サービスで、かれこれ二百本以上の作品に出演しているアダルト男優さんだ。
 薄くなった毛髪をポマードで固めて、フランス人みたいなちょび髭を生やしている。体はトドみたいに大きくて、たいていはレイバンのサングラスをかけている。
〈電車でワイルド! 深夜特急凌辱旅行〉では、運転士役で登場していた。〈桃尻バニーのミルクタンク殺人事件〉では、主人公をサポートする刑事役で出演していた。
 B太郎氏がいるだけで画面が引き締まるというか、不思議な男優さんだった。

 初対面のときも(それは夜だったが)クロワッサンB太郎氏はアメリカの保安官みたいに大きなサングラスをかけて、厚手の茶色いロングコートを着ていた。ほんの数分前まで撮影だったらしく、ロングコートの下は、ぬかるんだイルカのように濡れた体に、ブリーフパンツ一枚だった。
 ぼくは彼にたずねた。
「いままで何人ぐらいの女性とセックスしたんですか?」
「五百人ぐらいですかね」と、根元まで吸った紙タバコを灰皿で揉み消しながら、B太郎氏は言った。
「うらやましいなぁ」とぼくが言うと、彼はうんざりした顔をした。それでぼくは「仕事になると、それは苦労もあるんでしょうね」と付け加えた。
 B太郎氏は首を横に振った。
「仕事になったから、というか」
「というか?」
「アレルギーなんです」
「アレルギー?」
「女性アレルギー」

 どうしてこの仕事を選んだ? とは言わなかった。
 ぼくは何も言わず、クロワッサンB太郎氏を抱きしめた。ぼくの胸のなかで、彼はおいおいと泣いた。お気に入りのTシャツに、みるみるうちにアトランティス大陸の模様が浮かんだ。

「おい!」と逢沢京子に言われて、「はい?」とぼくはこたえた。
「で?」と逢沢京子は喫茶店のテーブルを指先でこつこつと叩いた。
「で?」とぼくは逆に聞き返した。
「ほんとうに帰ります!」と席を立った逢沢京子に、ぼくは言った。
「観せることができるんだ」ぼくは最高の笑顔で続けた。「今夜だけの特別上映」


 逢沢京子とクロワッサンB太郎氏の顔合わせが済んでから、シンクロの準備は急ピッチで進んだ。
 ぼくらはまず腹ごしらえをした。B太郎氏が作った煮込み炒飯フラペチーノを(ぼくはフラペチーノ抜き)みんなで一緒に食べた。女性アレルギーのB太郎氏の反応だけが心配だったが、喉元に軽い炎症ができただけで、すぐに打ち解けた。
 食後、ぼくらはハーブティーを飲みながら談笑した。
 逢沢京子が言った。「このハーブティーって?」
「B太郎さんの手づくりなんだ」とぼくがこたえた。
「何が入っているんです?」
「薔薇とか、煮干しとか、いろいろ」
 逢沢京子は、部屋のなかをぐるりと見まわした。
 部屋のいたるところには、クロワッサンB太郎氏が歩いていけるだけの世界各地で拾い集めてきた——松ぼっくりや、枯れたタンポポの根っこや、ミイラ化した蝉の死骸がガラスの小瓶に入って並べられていた。
「なんだかポカポカしてきた」
 そう言って逢沢京子は胸元のボタンをゆるめた。

 シンクロの発動条件は、いたってシンプルだ。
 その時間、その場所に、クロワッサンB太郎氏と一緒にいること。
 空気中の微粒子とB太郎氏の成分が結晶化して、空に〈真夜中〉の層ができる。最初は境界線のあいまいだった〈真夜中〉はやがて、ぴきぴきと音をたてて凍りつく。最終的には2メートルの厚い層になって、夜を覆いつくす。
〈真夜中〉が訪れる。
 ドーム状の〈真夜中〉は磨かれたタイルのように、ぼくらの脳みそを投影する。

「今日はこのあたりみたい」
 とクロワッサンB太郎氏が立ち止まったのは、住宅地をぬけて、無人になった工場の敷地を縦断し、錆びた金網をよじのぼった先の、雑草に覆われた空き地だった。
 濡れた草に混じって潮風のにおいがした。
 食後に飲んだハーブティーが脳みそを揉みほぐして、ドリップ状の自律神経が夜に溶け出していた。
 輪になって座ると、ぼくらは瞑想するために目を閉じた。
「もう少し、こっちみたい」とクロワッサンB太郎氏が言うので、ぼくらは尊師がするみたいにお尻だけでジャンプして移動した。
 波の音が聞こえた。
 遠く対岸に町の光が見えた。
 クロワッサンB太郎氏がコンビニの袋をがさがさと鳴らした。一人に一袋ずつ、ポテトチップスと果汁グミが手渡された。
「遠足みたいだね」とB太郎氏が言った。
 ぼくらは無視した。
 泡がはじけるように、町の光が消えていった。
 酩酊した過去が吐き出されていく。
「ぼくの映画がはじまるよ」
 湾に停泊した貨物船の汽笛が鳴った。
 それが上映の合図だった。


 墜落していく戦闘機がドラゴンに丸呑みにされた。ドラゴンの炎はジプシーの街並みを焼き尽くし、夜空を血の色に焦がした。なのにスフィンクスは微動だにしなかった。ドラゴンの爪によって顔半分が崩されたが、スフィンクスは動かなかった。
 もう何年も動かなかった。
 ぼくと逢沢京子はその間に、年老い、どこかの施設で孤独死し、誰かの子どもとして産まれ、青春を謳歌し、大学生になるころには人生の重さに悩んだ。
「どうかな? ぼくの映画」
 ぼくらはテトラポットに座って、赤く染まった空を見つめた。
「はっきり言って」ぼくの隣にひざを抱えて座っている逢沢京子は言った。「退屈」
 それからぼくの肩に、頬をあずけた。
「でもステキ」
 赤い空に、月明かりを浴びて半透明になったドラゴンがとぐろを巻いていた。
 廃墟化したビルディングが逆さまになって落ちていく。
 今まさに人類は滅びようとしていた。最後に生き残った恋人たちを乗せたロケットが火星移住をめざして飛び立った。エンジンから噴き出された白煙がまっすぐな軌道を描き、恋人たちを乗せたロケットは、しかし、ぼくらの頭上で殺人バレーボールによって押しつぶされた。
 音のない爆発——ロケットの残骸とともに、血飛沫がぼくらの目前に降りそそいだ。

 ぼくらは接吻を交わした。
 痛みが走って、あわてて顔を離す。手をあてると血が出ていた。
 逢沢京子を見ると、その歯の隙間に、ぼくの唇の皮が垂れ下がっているのが見えた。
「羊はね」逢沢京子が言う。「その毛を誰かに刈ってもらわないと、いつしか自分一人では動けなくなるの」
 ぼくは全身に彼女の体重を感じながら、顔と顔がずれた視界から、海を見ていた。
 防波堤にひっかかるようにして死体が漂っていた。
 男の死体は背中を向けて、ぷかぷかと浮かんでいた。

(了)


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