【エッセイ】話すこと、伝えること
文章を書くことも誰かに伝えることには違いない。たしかにそうだ。自分の主義主張や物語、そして想いを、上手くいけば不特定多数の人物に伝えることができる。だからこそ人は書くのだろうし、ずっとずっと文字として、本として残ってきたのだろう。一方で話すことはどうだろうか。
書くことと違って会話は基本、目の前の人物との言葉のやり取りになる。表情を見ながら、言葉のイントネーションに相手の機嫌や好みを感じながら、時には視線にも注意を向けて言葉のキャッチボールを交わす。きっと楽しいことに違いない。
しかし私は、おそらく、他者と会話することから逃げてきた。家族とでさえもそうであった気がする。とにかく短い単語で切り上げ、当然伝わるものとしていたのだ。長年一緒に暮らしていれば、それでも多少は会話は成り立つのかもしれなかったが、おそらくその会話はとても歪なものだったに違いない。それに私はよく会話が飛ぶとも言われた。会話の途中で全然違うこと、違う話題に移ってしまう。私の頭の中では連想に連想を重ねての発言であって、もとの会話とは繫がっているように思っていたのだが、そうではなかったらしい。客観的に見れば、私は相手と会話していたのではなく、自分自身と会話をしているにすぎなかったのだ。そこに相手はいなかったのである。
自分との会話は楽しいものだった。他者が入り込んでこないのだから何も考える必要がない。時には否定されることもあるが大抵のことでは自分は自分を否定せず肯定する。だから他者から見れば自分勝手な人間に見えたのだろうし、人付き合いが苦手と捉える人もいたのだろう。次第に自分の考えが伝わらないのは相手が悪いのだ、と考えるようにもなった。私がここまで深く考えているにも関わらず何故?私はあなたのことをここまで考えているのに何故伝わらないの?そう、相手が悪いのだ。相手が相手が相手が……。全て他者のせいにして自分は自分の世界に胡坐をかいていた。要するに私は孤高を気どった孤独に過ぎなかったのだが、それに気づくには年月がかかり過ぎていたかもしれない。
しかし私の前に会話を必要とする相手が現われた。
その人は最初から「自分の考えはしっかり言うこと」「感情的になるのではなくてちゃんと論理的に話すこと」と私に伝えた。そして「思ったことはたとえどんなことでも話すこと」とも。その頃の私は相手の言葉の裏の意味も勘繰って、勝手に自分の頭で解釈し、ただそうだね、と相槌を言い、無駄なことはしないでただ自分が我慢をすればいいというさらに悪い癖も追加されていた。ようするに私はまた逃げていた。逃げていたのである。相手からも自分自身からも逃げていた。ただその相手は逃げなかった。私の前に立ち塞がった。何度も何度も。その度に私は「ごめん」と返すのだが、結局それも面倒から逃れるための言葉であって真に謝罪の意味を持っていなかったのかもしれない。感受性の鋭い人であったから、きっとその「ごめん」には「ごめん」の意味はないのだ、と早い段階から感じとっていたかもしれない。それでも何度も何度も私の前に立ち塞がった。
人には我慢の限界というものが、確かにある。
何度も何度も同じことを繰り替えせば馬鹿馬鹿しくもなるし、怒りたくもなる。そしてその人は私にこう言ったのだ。
「あなたが私に何でもかんでも話せないということは、つまり、私のことを心の底から信用していないからじゃないのか?」と。
その瞬間、私の思考は停止した。
私の目からは涙が流れていた。嗚咽していた。路上でである。大の大人が声を上げて泣いていた。
そうだ。何故気がつかなかったのだろう。私は相手を信用していなかったのだ。こう言ったら相手は傷付くだろうとか、言わないほうがいいとか、結局は自分を守るための逃げ道で、逃げて逃げて逃げていただけに過ぎなかった。確かに言わないほうがいいこともあるし、空気を読むことも必要だろう。だが。そこには確実に相手がいた。私にはいなかった、いやいなかったことにしていたのだ。信用できなかったから。今まで友人と思ってきた人たちや、家族でさえも信用していなかったのだろうか。そう思うと寒気がした。
目の前にはまだ、泣きじゃくる私を見る人がいた。その目は私を心配するようでもあったが、しかしこれで最後かも、とでも言うような目をしていた。
私は思いのたけをぶちまけた。言いたいことを全部言った。すると相手は、
「何だ、言えるじゃん」
と笑ったのであった。初めて私は会話をした。
きっとこの先も色んな人と会話をするだろう。そこにはきっと相手が存在し、かつ、自分も存在しているはずだ。