人生3匹目の犬/愛犬が死んだ時、次の子はいつ迎えるべきなのか
少し遡る昨年10月、実家に私の人生3匹目となる犬を迎えた。生まれて2ヶ月ほどの黒柴。名前はりんちゃん、女の子。
黒柴の子犬、特にメスは人気が高いらしく、産まれる前からブリーダーに話をつけ、産まれたと聞いた途端、両親はまだ顔も見ぬ愛犬を迎えに隣県まで出向いた。
私は、といえば、コロナ禍でなかなか実家に帰ることもできなかったので、まだ目も開かない子犬とはオンラインで対面した。やっと帰省できた頃にはすっかり我が家に慣れた子犬が実家で走り回っており、その半年後に帰った時には、身体がすっかり成犬の柴犬が、我が物顔でソファに鎮座していた。
何だか、貴重な成長のシーンをすっぽりと見逃したようだった。
実家を離れていようと、家族として迎える犬が特別なことに変わりはない。これまで、私が思春期から大人になる過程を見守ってくれた犬もいれば、わざわざその犬に会いに帰省するほど、大切に可愛がってきた犬もいた。なのに、りんちゃんに関しては、「こんなにも他人の犬感が強い子は初めて」だと感じている。
両親は「りんちゃんがこんなことをしたよ」と定期的に写真を送ってくれるのだが、まるで親戚の年賀状や、instagramで見かける他人の子を眺めているような感覚なのだ。
両親が飼うことを決めた犬だから?
身体が小さな頃の成長をすっぽりと見逃したから?
たぶん、前の子を喪った悲しみが、癒える前に迎えた犬だから。
だと、最近になって気づいてしまった。
私のスマートフォンの待ち受けは、人生2匹目として迎えた愛犬。昨年8月に肺水腫で苦しみながら逝った愛犬の写真を、未だ変えられずにいる。
ペットを喪った時、同じように可愛がっていても、心が癒えるスピードは家族によって格差がある。例えば、毎日の犬の散歩が日課だった父にとって、犬のいる生活は1日でも欠かせないものだった。実際、1匹目を喪った時、1年ほど次の犬を迎えることを躊躇ったが、その間に父は体重が減るほど落ち込み、2匹目を迎えたあとは、さらに熱心に犬を可愛がるようになった。昨年たった2ヶ月で3匹目となるりんちゃんを迎えることを強行に決めたのも、やはり父だった。
一方、兄弟のように遊び可愛がっていた私にとっては、「そろそろ次の子を」と思えるようになってから3匹目を迎えたかったというのが、心の一番根底に押し込んでいた本音だ。
「私は実家を離れているし、毎日の世話をするわけじゃないから。2人が決めたなら、いいと思うよ」
3匹目を迎えようと思う、と話す父と母に、大人ぶって言ったことを少し後悔している。お転婆なりんちゃんと2匹目を比べて、「あの子はこうじゃなかった」「あの子だったら」と思うことに罪悪感もある。そんな私でも、帰省の度にりんちゃんは嬉ションを撒き散らしながら、全力のwelcomeで迎えてくれるから、余計に心がちくりと痛むのだ。
我が家に来て1ヶ月。飼い主の前髪を食うりんちゃん。
ペットロスを癒すには、新しいペットを飼う方がいい、という意見をよく耳にする。2匹を見送って、確かにそうだと感じている。
では、大切な愛犬が死んだ時、次の子は"いつ"迎えるべきなのか。
家族によって違うその答えは、決して「早ければいい」という訳ではないと、自身の経験を持ってそう思う。快くその子1匹に向き合えるか、は寂しさや喪失感に負けることなく、犬を飼うすべての人に向き合ってほしい課題だと感じている。
大切な愛犬の一周忌に寄せて。
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