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往復書簡|受け取った愛と表現する愛。

おりょうさんの記事へのお返事です。

ずいぶん秋めいてきましたね。
先週末は、本来だったら衣替えをする週末だったのだけど
「こんなに暑いのに、長袖なんてまだ全然いらないんじゃない?」
と押し入れを開きもしなかったら、なんということでしょう!この寒さ!!
クローゼットの中のノースリーブのワンピースを見るだけで、寒々しい気持ちになってしまいます。
おりょうさんの住んでいる場所ではどんな感じですか?

私は過去の姉達や母からのダメ出しやからかいと一瞬にして結びつけてしまったんだと思います。
言い方も、表情も全く違うけど、
勝手に冷ややかなものを感じてしまったのか、
ドラマ「トミーとマツ」の「トミ子」のように、何かトリガーになって
あの瞬間私は傷ついたし、悲しかった。

わたしはこれを読んで2つのことを感じました。

ひとつは、わたしたちが親から受ける「愛」について。
わたしたちは、親から受けとったものを無条件に「愛」と定義してしまうのだと思っています。
暴力を受けて育った子どもが、他者に暴力をふるってしまうように。
頑張っても頑張っても褒められなかった子どもが、他者に褒められると困惑してしまうように。
悲しかった自分をできるだけ見ないようにして、親から受けた「愛」を模倣してしまうのだと思うのです。

「調子に乗らせないこと」
それが、子どものころおりょうさんが受け取った「愛」なのかもしれませんね。
そして、もうひとつ前の往復書簡でおりょうさんが書いてくださっていた
「人生&人間ソムリエ」
という生き方は、その「愛」への返歌なのかもしれない。
わたしの「愛」はこれですよ、という宣言なのかもしれない。

そう感じました。

さて、わたしが感じたもうひとつのことは
子どもの時に受けた心の傷は
忘れることはできても、ほんとうの意味で癒えることはないのかもしれない、ということです。

あの時から私の中で起こっていたことを
「被害妄想」
「自作自演乙」
と言ってしまえばそれまでだし、
これまで私は、幾度となくそうしてきました。

でも、
それで片づけてしまうことは、
立派なセルフバッシングだと思うし、
それをされると余計に悲しい。
だから、
もうしたくないんです。

もう悲しみに蓋はしたくないんです。

子どもの頃に受け取ったものを「愛」と定義するためには、
傷つくことは許されなかった。
少なくともおりょうさんは、その痛みに気づかないフリをするしか、生きていくすべを持たなかったのだと思うのです。

「傷ついた」に、証拠は不要です。
根拠も、誰かに証明してもらう必要もありません。

だから、「被害妄想」「自作自演乙」なんて言わないであげてください。
もし言われたら、怒っていいんです。
誰にもその痛みがわかる筈はないのです。

なので私は、
今後、私的「トミ子」発作が勃発した際には、
いち早く気づくようにして、
そして「わし、傷ついた」って
言ってみようって思ってます。
心の中で☺

わたし、おりょうさんのことを「表現するひと」だと思っています。
毎瞬毎瞬「おもろいこと」を収集して、それにいのちを吹込み、ジャイアンリサイタル的に世界に向かって大声で高らかに歌うひとです。

ねぇ、でもおりょうさん。
痛みや悲しみ、怒りだけを自分の内側に閉じ込めて、
「おもろいこと」だけを歌い上げるって、なんかちょっとつまんなくないですか?
それは、ほんとうにおりょうさんが表現したいものですか?

おりょうさんとバディになったときに、メッセンジャーで送ったと思いますが、
わたしたち、隣り合った2個の細胞のようなものだと思っています。
まったく違う個性を持っているけれども、
とおくから見たら、だいたい同じ感じの2個の細胞です。
どちらかが傷ついたら、もうひとつも無事ではいられません。
だから「わし、傷ついた」って思ったら、
心の中で呟くんじゃなくって、言ってください。世界に向けて。

そしてお互いに助け合って、健やかな世界で生きていきましょう。

***

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