炭治郎の抱える”鬼” <文学としての『鬼滅の刃』part1>(第9話『おかえり』まで)完全考察※ネタバレ注意※
ネット上で「鬼滅の刃 考察」で検索すると、キャラクター設定や舞台設定の考察がたくさん見つけられますよね。
個人的には設定考察にはあまり興味が無くて、するにしても「作者がなぜそう設定したのか」ということを考えるのが好きなんです。物語の世界観にどっぷり浸かるのではなくて、あくまでも漫画・フィクションとして見て、作者の意図を探りたいんです。
国語の授業っぽい考え方をしているのでタイトルに「文学としての」と付けてみました。
しかしこういう国語っぽい考え方、見方でないと分からない『鬼滅の刃』が確かにあるんです。
本記事ではそれをできる限り明らかにしていきます。
※書き直しが手間なため、この文章以降は「だ・である調」の文章になっています。ご了承ください。
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〈物語全体のテーマ〉
①義勇の一言
第1話『残酷』を読み解くキーワードは
★ 冨岡義勇「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」
である。
第1話には漫画や小説などの物語作りにおいて頻繁に用いられる弁証法の構造がある。
弁証法とは何かを簡単に説明する。
②弁証法の解説
このように二つの異なる意見(Aをテーゼと呼び、Bをアンチテーゼと呼ぶ)を合体させて新しい見方(これをジンテーゼと呼ぶ)に辿り着こうとする議論の方法のことを弁証法という。
③炭治郎のアンチテーゼ
第1話の中で、これがどのように行われているのか順を追って解説する。
まず竈門炭治郎は冨岡義勇に殺されそうになっている竈門禰󠄀豆子を救うため、義勇に土下座をして救いを請う。
この土下座という行動が一つの目の意見(テーゼ)だ。
このアンチテーゼを提示された炭治郎は、自分の命を賭けた不意打ちによって禰󠄀豆子を救おうと試みた。
この不意打ちがジンテーゼである。
炭治郎「弱者である自己(身体)を犠牲にして
オノに思いを継がせることで救う」
始め、炭治郎と義勇は「強者でなければ救いたいものを救えない」と考えていた。だから炭治郎は強者に土下座をして頼み込み、義勇は弱者(炭治郎)に強くなれとお説教をした。
しかし炭治郎は思いついたのだ。
炭治郎(弱いままでも救えるんじゃね?)
その方法が“生殺与奪の権を半分だけ他人に握らせる”というものだった。
この行動が作品全体を通して描かれる「思いは不滅」というテーマを象徴して、『鬼滅の刃』という漫画の幕が上がるのだ。
★〈鬼の本質〉
①鬼の状態
“鬼”という存在がどのように描かれているのかを知ることが『鬼滅の刃』を理解することにはとても重要だ。
第9話『おかえり』冒頭、最終選別を終えた炭治郎の証言をもとにして解説する。
鬼は基本的には意思疎通ができないものとして設定されている。
禰󠄀豆子も鬼になったばかりの時は、自分の兄である炭治郎が分からず、喰い殺しかける。
よって“鬼”は夢中であると言える。
夢中とは「我を忘れている」「無意識」「本能」「他人本位」つまり自分で決めていない・決められない状態ということだ。
②炭治郎の本質
これを踏まえて炭治郎というキャラクターを考察していく。
第1話で炭治郎が義勇と弁証法を行なったときのテーゼは「弱者として強者に救ってもらうべき」というものだったが言い換えれば「他人に任せるべき」となる。
つまり炭治郎は禰󠄀豆子が捕らわれた際に夢中だったのだ。禰󠄀豆子が殺されそうになって夢中で他人任せにしたのだ。そして後になって我を取り戻し、他人の決定を掌握して自己の目的を果たそうとした。
第2話『見知らぬ誰か』で炭治郎が人喰い鬼と遭遇し、鬼が飛び掛かって来た瞬間に鬼の喉元を斧で掻っ切るという場面がある。後に、鬼を木に固定し止めを刺すか刺さないかで迷うという場面がある。
この2つの場面がおかしいのだ。
日輪刀で断頭するか、日光で焼き殺す以外に鬼を殺す方法がないことをこの時点で炭治郎は知らない。ということはつまり、鬼の喉元を掻っ切った時、確実に炭治郎は鬼を殺そうとしたことが分かる。後になって炭治郎は殺そうとした相手を殺せなくなってしまった。
これは一体どういうことなのか。
つまり、鬼の喉元を掻っ切ったあの瞬間、炭治郎は夢中だったのだ。自分が殺されそうになって夢中(本能)で鬼を殺そうとしたのだ。そして後になって自分が完全に優位に立っている状況下で我を取り戻したのだが、鬼を殺すことを自分で決められなかった。
よって炭治郎というキャラクターは鬼の気質を持っていると言える。
この要素は最後まで消えることはなく、炭治郎というキャラクターの根幹になるものだ。
これから解説していく全ての内容は、このことを踏まえながら読んでいただきたい。
なぜなら、ほとんどの読者が炭治郎の“鬼の気質”に気が付いていないことで、『鬼滅の刃』を大きく誤解しているからだ。
〈修行〉
炭治郎が木に固定した鬼を殺すか迷い続けた挙句に朝日が昇ったことで鬼が死んだ時、鱗滝佐近次が問う。
鱗滝曰く、炭治郎の判断の遅さは覚悟が甘いから。
覚悟とは簡単に要約すると「妹が人を殺したとき、妹と自分を殺すこと」となる。
言い換えれば「妹が“鬼”に飲まれた時、お前は妹に加担する本質的な鬼になってしまうだろう。そうなった時、人を喰った鬼(禰󠄀豆子)とそれを補助する鬼(炭治郎)を殺すこと。それが覚悟だ」である。
第2話『見知らぬ誰か』で炭治郎が鬼に襲われている最中、禰󠄀豆子は目の前の骸に涎を垂らし、立ち尽くしている。これは「兄に助太刀をする」か「目の前の骸を食べる」か。人として生きるか鬼として生きるかの2択に迫られて迷っているのだ。迷った結果「兄に助太刀をする」という判断が遅れ、危うく炭治郎は喰い殺されそうになった。
これと同じように炭治郎は「この先に喰われる人を減らすために目前の鬼を殺す」か「自分が嫌な思いをしたくないから目前の鬼を殺さない」という人として生きるか鬼として生きるかの2択で迷ったから、日が昇るまで鬼を殺せなかったのだ。
鱗滝が問うているのは「絶対に鬼にはならない覚悟」「2択になったら絶対に人として生きることを選ぶ覚悟」なのだ。
この覚悟を持てないでいたから炭治郎には修行が必要だった。
修行内容は空気の薄い山を下る、というもの。これは言い換えると意識を保つ修行。つまり我を忘れない、“鬼”にならないための修行と言える。
〈なぜ岩を斬らなければいけなかったのか(作品の意味として)〉
最終選別で登場する異形の鬼の硬い首を斬る伏線であることは勿論だが、わざわざあんなにも巨大な岩を用意する必然性はなさそうに思える。
こういった無茶な設定は色々な作品で見られるのだが、作者のメッセージである場合がある。だからこれも見過ごしてはいけない要素だ。
まず錆兎の面を斬ったら岩も斬れていたという描写の解説をする。
岩には鱗滝の弟子たちの魂が宿っている。墓のような役割も果たしているのだろう。
異形の鬼の体には無数の手が生えている。今まで食べた者たちの肉体を宿していることを示していると考えられる。
ここで対比表現が成立している。
つまり炭治郎が斬ったのは岩でもなく鬼でもなく、錆兎たちなのだ。
よって見出しのタイトルが変わる。
〈なぜ錆兎たちを斬らなければいけなかったのか〉
岩を斬る修行は、鱗滝が教えたことを身につけられているかを試すためのもの。
つまり、技を受け継ぐことができたかの確認である。
次に、最終選別で炭治郎は何を受け継いだのか。
それを知るには異形の鬼と錆兎の台詞を理解しなければならない。
異形の鬼の台詞を聞いた炭治郎は怒りの表情、鬼の形相で斬り掛かる。
この瞬間、炭治郎は殺された時の真菰と同じように夢中になっている。
夢中の炭治郎に対して錆兎が
と「復讐に走るな」と言う。
修行に付き合ったのは、自分たちの復讐をしてほしいからではなく、炭治郎に生きてほしかったから。
錆兎は「俺たちのためにではなく自分のために斬れ」「過去ではなく未来を受け継げ」と言っているのだ。
なぜ錆兎たちを斬らなければいけなかったのか。
それは錆兎たちの無念という過去を絶って、技と未来を受け継ぎ、生きるためであった。
part2の記事リンクです。
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