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怒れない自分の行く先。

怒りの感情が湧きにくい。
湧いてもすぐにしぼんで、悲しみに変わってしまう。その後はずっと、悲しみがあるだけ。向き合って、たまに逃避して、それでも向き合って、最終的にへとへとになる。

物事を切り拓いてる人たちは、みんな何かに怒っている気がする。それは社会とか、もっと大きなもののための怒り。

漠然と、怒りへの憧れがあった。怒りは明確にエネルギーだ。わたしはエネルギーが少ない気がする。悲しみと向き合うから、むしろエネルギーを吸いとられている感覚すらある。

以前これを人に話したら、「怒りは目的じゃない。怒ることを目的にしてはいけないよ。」と言われた。確かにそれはそうだけど、じゃあどうしたらエネルギーが湧くのか分からない。わたしはずっと、自分のエネルギー源を見つけられずにいた。

昨日の夜、こんなnoteに出会った。

怒りで動いていた自分はとてもエネルギッシュで、迷いがなくて、わかりやすく周りに期待されていました。一方で、あまりに盲目的で人や自分の痛みに鈍感だったようにも思います。
苦しい感情を怒りに変換して溜め込むのではなく、いちいち傷ついて、まっとうに悲しむ。打たれ弱くて要領が悪いけれど、人や自分と真摯に向き合える。
これからはそっちの自分で生きていきたい。

ああ、と思った。怒れる側の人も彼ら彼女らなりに葛藤があるんだ。彼女も、怒りゆえにへとへとになっている。それでも同じへとへとなら、「悲しんで向き合う」選択をするのだという。

あれ、と思う。怒らない、怒れないわたしたちのエネルギーは、どこにあるんだろう。怒り以外の心のエネルギーがどこかに存在しているはずなんだ。考えて考えて、思い出した感覚があった。

怒りが「煮えたぎる熱いエネルギー」だとしたら、もう少しウェットであたたかなエネルギー。それは、幸せとか喜びとか愛情とか、そういうプラスの感情から湧き出るもの。

部署のクリスマス会で、クジで引いた相手にサンクスカードを贈るコンテンツがあった。サンクスカードを書く相手はランダムで一人だけ。カードを受け取った相手が、次に自分が書いた相手にカードを渡す順番だった。

Aさん→Bさん→Cさん→・・・とサンクスカードが渡されていく。

わたしがカードを渡した相手が、嬉しそうな顔で次の人にカードを渡していく、その次の人がまた次の人に渡していく・・・

その光景を見ていたら、言いようのない幸福感に包まれた。上手く説明できないけれど、感謝の循環とか、幸せの循環とか、そういったものを感じたのだと思う。

自分の手から離れても、どこかで幸せが巡ってくれればいい。わたしの大切な誰かが笑顔だと嬉しくて、幸せ。その気持ちを感じた後しばらく、根拠もなく「なんでも出来る」気がした。それは明確にエネルギーだった。

「悲しみや怒りを強く感じる人は、その分でっかい喜びや楽しさがあるよ」

いつか誰かに言われた言葉が、ストンと自分に落ちてきた。喜びや願いも、エネルギーになる。

打たれ弱いまま生きていく、それは強さが必要な生き方だと思う。でも打たれ弱いまま、悲しみながら傷つきながら生きていった先に、本当にだれかの幸せを願える自分が出てくるのかもしれない。

だれかの幸せを願い、だれかの幸せを喜べること。それはもしかしたら、怒りよりもあたたかで活力のあるエネルギーになる。

悲しんで傷ついても何度でも向き合っていく。向き合った分だけその先の幸せを願える。怒れない自分の行く先は、悲しみのその先の、願いと喜びがあふれる世界なのかもしれない。



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