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愛とシゴトとナイチンゲール(1)いい看護師はすぐに辞めてしまう

国武芽以|主人公。新人看護師。
吉井艶子|めいの病棟に入院中の重症リウマチ患者さん。72才。
田中先輩|面倒見のよい芽以の先輩。3年目の看護師。

いい人はすぐに辞めてしまう

「えっ、あの看護師さん辞めちゃったの?いい人だったのに残念だねー。」

あなたも、かかりつけのクリニックや病院でこんな経験はないだろうか?

私は新人看護師だった頃、勤め先の病院で「いい看護師さんが辞めていなくなる」という事態に遭遇した。「いい看護師さん」の退職は、病棟ではちょっとした事件になる。

私は、今年4月に薬師寺総合病院に就職した看護師、国武芽以、23歳。看護大学を卒業したばかり。秋は深まり、1年目も半分以上過ぎたのに、成長の兆しが見えない落ちこぼれだ。
その私に、懇切丁寧に教えてくれた田中先輩が、辞めるというのだ。夏に間違えて麻薬のアンプル一般廃棄物回収ボックスに棄ててしまい、アンプルが足りないことに気づいた夜勤者に呼び出され、地下のゴミ置き場で半泣きしながら探したとき以来の大事件だ。

先輩が辞める理由はまったく見当がつかなかった。もちろん、先輩は師長には辞職の理由を伝えていただろう。しかし、年下で、ただでさえ頼りなかった私が相談されるわけがない。私も本人に理由を聞かなかったので、なぜ辞めてしまったのかは今もわからないままだ。

彼女はいつもニコニコしていて患者さんにも評判で、チームの中でも常に気を使い、みんなに頼られていた。辞める理由がわからなかった。

当時の私は、恥ずかしいまでに視野が狭く、ズバリ自分のことしか考えていなかった。彼女の辞職で真っ先に考えたのは『新人の私を見放さず、懇切丁寧に教えてくれる貴重な人材がいなくなる。どうしよう』だった。

実技ができない看護師の、肩身の狭さ

というのも、仕事覚えが悪かった私は、カテーテル交換の介助だのオペ前準備だの指示があるたびに頭が真っ白になり、よくフリーズしていた。

看護師の仕事は、かなりの割合で実技が伴う。

たとえば、採血するとか、尿道カテーテルを入れるとか、医師がカテーテルを入れる際に物品を渡すとか。単に手順どおりにやればいいというのではなく、清潔操作だとか、患者さんの状態や医師による処置のクセを把握しておかなければならないとか、いろいろな条件があるのだ。

当然ながら、処置によっては、ちょっとでも手元が狂うとか、ウッカリ手順を間違えるとかすれば、取り返しのつかない医療事故になる。まさに『臨機応変』が求められる。
頭と、体を同時に、しかも相手の命がかかった状態で動かす看護技術は、鈍くさい私には途方もなく難しかった。それを、心身万全の状態ではなく、夜勤でもうろうとした時間帯に行うこともあるのだ。なんのいじめなのかと思ってしまうくらい過酷だ。
学生時代に少々お勉強ができても、実技が得意でない看護師は、現場では悲しいかな、使い物にならないと言われる。

同期はどんどん実技を覚え、コツをつかみ、日に日に動きが洗練されていく。最近では、同期の何人かが「動線効率を考えたらさあー」なんて訳のわからないことを言い出した。私だけがいつまもでも学生のようにおどおどし、ぎこちなかった。

私は、手技について苦手を自覚し、物品を置く位置だとか、受け渡し方だとか、イラストを描いて几帳面にメモを作っていた。業務中は常にその「特製虎の巻」をポケットに忍ばせているし、実際の物品を使って手順も確認したはずだ。

それなのに。

いざその場に立つと、体が動かない。「次はこの器具を出せばいいですよね?」とおびえたネズミのように先輩に確認しつつ、何とか業務を乗り越えてきた。その現象について、今なら「緊張しすぎだよ…」と自分で突っ込めるし、あるいは「それって実行機能障害なんじゃない?」とアセスメントできるのだが、当時の自分にはそんな余裕はなかった。

先輩は、そんな私の異変にいち早く気づき、「大丈夫?」と、いつも助け舟を出してくれた。私が仕事でミスって落ち込んだときには、ナースステーションでこんなメモをそっと手渡してくれた。

『ドンマイ!仕事が終わったら、ご飯食べに行こう!』

先輩の思いと裏腹に、大食漢の私は仕事で失敗したからといって食欲がなくなることはなかった。むしろストレスを感じたら過食するタイプの私は、病院裏のいつものイタリアンで、先輩に愚痴りながら、涙とともにパスタやピザをもりもり口の中に押し込んだ。

そんな私を見て、きっと先輩は思ったはずだ。なんだ、それほど落ち込んでもなかったのかなと・・・。

「いい看護師さん」は新人看護師の「救いの神」


そんな天使、いや救いの神がいなくなった。しかも彼女は、退職したら地元出身地に帰るというではないか。

彼女とは今生の別れになり、それから後も「いい看護師さん」は、次々に辞めていった。

いい人が次々と病院を去っていく時のあの虚無感は今も忘れられない。病棟に残るのは怖い看護師ばかり。『病棟の中で味方が一人もいなくなり、孤独の淵に立たされる』そんな感じだった。自己中かも知れないが、これが、人の命を預かって仕事する人間にとって、どれほど心細く恐ろしいことかわかってもらえるだろうか。

オー、マイ、ガー!明日からどうやって仕事すればいいの?わかんないときは誰に聞いたらいいの~!!

病院裏の職員通用口を出たときに仰ぎ見た空は、記憶では突き抜けるほど青く澄んでいて美しかった。 


つづく

※この物語はフィクションです。


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