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反労働主義のすゝめ(後編)

〇その労働が生み出す「楽」は、その労働が生み出す「苦」を上回るのか

前編で掲載した労働者と消費者の図を以下に再掲する。

労働者と消費者(縦区切り)

労働者)「労働による苦」+「貨幣獲得による楽」=0?
消費者)「消費による楽」+「貨幣喪失による苦」=0?

ここでは現代人を「労働者としての私」と「消費者としての私」の二つの側面に分けて、それぞれの苦と楽の勘定を行ったのだった。いわば「縦に区切って」勘定していた。では、これを「横に区切って」みたら、どうなるだろうか? 図示してみる。

労働者と消費者(横区切り)

労働者の苦と消費者の楽(上段)
まずは図のうちの上段の勘定を考えてみよう。「労働者が労働によって受ける苦」と「消費者が消費によって受ける楽」を比べると、どちらが大きいだろうか?

それは「労働者が受ける苦」の方である。労働者が受ける苦というマイナスと消費者が受ける楽というプラスを足し合わせた結果はマイナスになる。決してプラスにはならないのだ。

どういうことだろうか?

例として接客業を考えてみよう。あなたはどこかの店で働いている。きっとあなたには店の方針として「お客様に『また来たい』と思わせるような、そんな気持ちの良い接客をすること」が求められるはずだ。あなたはそれを真面目に守り、一生懸命に良い働きをする。きっとあなたの接客を受けたお客様は良い気分になって店を後にすることだろう。

しかし、真面目に働くというのは中々に苦しいものだ。ときには嫌な客も来る。そんな客は、あなたに耐えがたいほどの苦痛を与えるだろう。退勤後のあなたは「嫌だなあ」「もう仕事やめたいなあ」なんて思うはずだ。

さあ、ここで苦と楽の勘定をしてみよう。あなたが良い接客をしてお客様に与えた「楽」の総和と、あなたが労働によって受けた「苦」の総和は、果たしてどちらが大きいだろうか?

答えは明確に「苦」の総和の方である。なぜか? あなたが行った気持ちのよい接客とやらで、お客様は気持ちよくなんてならないからだ。一時的に気持ちよくなることも稀にはあるかもしれないが、そんなものは一晩も寝れば忘れてしまう。

今一度「消費者としての私」となって考えてみて欲しい。日本に住まわれている方々なら、一度や二度は良い接客とやらを受けたことがあるはずだ。しかし、その良い接客であなたが得た「楽」は、いつまで持続したか? 気持ちの良い接客を受けた日の一週間後や一か月後まで、その気持ちのよさに酔いしれ続けたことが、あなたの人生で一度でもあっただろうか?

無かったはずだ。労働者がいくら労力を割いて苦しみながら気持ちの良い接客とやらを実行したところで、消費者が受け取った気持ちの良さはすぐに消えて無くなってしまう。それが事実なのだ。

では次に「労働者としての私」となって考えてみて欲しい。あなたが労働によって受けた苦しみは、いつまで持続したか? 一晩寝たくらいでは消えてくれなかったはずだ。苦しみは「ストレス」となってあなたの体内に滞留する。仕事で受けた苦しみを、一年後に再度思い出して苦しみ悶えるような経験をしたことはなかっただろうか?

消費者が消費によって得た「楽」はすぐに消えて無くなる。一方で、労働者が労働によって得た「苦」は無くなることなく、むしろストレスとして体内に蓄積されていく。このように、苦と楽の重みはまったく非対称的で、不平等だ。だからこそ「労働者が労働によって受ける苦」と「消費者が消費によって受ける楽」を比べると、前者の方が圧倒的に大きくなるということを、ここで主張したいのだ。労働者が受ける苦というマイナスと消費者が受ける楽というプラスを足し合わせた結果は、必ずマイナスになる。

「労働者が受ける苦」+「消費者が受ける楽」<0

貨幣獲得による楽と貨幣喪失による苦(下段)
次は図のうちの下段の勘定を考えてみよう。「労働者が貨幣(賃金)獲得によって受ける楽」と「消費者が貨幣(代金)喪失によって受ける苦」を比べると、どちらが大きいだろうか?

それは「消費者が貨幣(代金)喪失によって受ける苦」の方である。労働者が受ける楽というプラスと消費者が受ける苦というマイナスを足し合わせた結果はマイナスになる。決してプラスにはならない。

これも先述した「苦と楽の非対称性」から導き出される結論である。例として、偶然に千円を手に入れた時の「楽」と、偶然に千円を失った時の「苦」の大小関係を考えてみよう。これは当然ながら後者の「苦」の方が大きくなる。偶然千円を手に入れたことで「ラッキー!」という感情を抱いたとしても、それは一時間もすれば忘れてしまう。しかし、千円を失ったことによる「何てことだ…」という感情は、一時間くらいでは消えてくれない。

だが、話はここだけでは終わらない。状況はもっと悪い。なぜなら上図内の文章にもある通り「消費者が支払った貨幣の一部が労働者に支払われる」からだ。労働者が獲得する分の貨幣は、消費者が喪失する分の貨幣よりも少ないのだ。これは消費者が支払った貨幣のうちの何割かが中間業者に抜かれるからだ。

つまり、より正確な例えは「偶然に千円を手に入れた時の『楽』と、偶然に一万円を失った時の『苦』の、どちらが大きいか?」である。これについては考えるまでもない話だろう。労働者が受ける楽というプラスと消費者が受ける苦というマイナスを足し合わせた結果は、必ずマイナスになる。

「労働者の貨幣獲得による楽」+「消費者の貨幣喪失による苦」<0

〇まとめ

式をまとめると、以下のようになる。

労働)「労働者が受ける苦」+「消費者が受ける楽」<0
貨幣)「労働者の貨幣獲得による楽」+「消費者の貨幣喪失による苦」<0

苦というマイナスと楽というプラスを足し合わせても、結果は必ずマイナスになる。主題の「反労働主義」は、この事実から導出されたものだ。

前編の「〇はじめに」でも述べた「労働によって世に生み出されるのは多大な苦しみである」ということを理解してもらえただろうか。そして、これほどの苦しみを生み出し続ける現行の労働システムを、これからも継続していくならば、当然人心は破壊されて社会は退廃の一途をたどるだろう。「労働は人心を破壊して世界を崩壊に導く」という結論は、決して荒唐無稽なものではない。

労働は人に苦しみという負を与える一方で、正なるものをまったく生み出さない。いや正確には、生み出してはいるが、人という種にはそれを感知できないと言うべきだろうか。いずれにせよ、私たちに求められているのは「たくさん働いて世界に楽を増やすこと」では断じてない。正しくは「働き方を見直して世界から苦を減らすこと」なのだ。

社会は甘くない?
ならば甘い社会を作ろうじゃないか!

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