見出し画像

反労働主義のすゝめ(前編)

〇はじめに

労働とは苦しいものである。このことに異論を持つ人は少ないだろう。もちろん、中には自らの仕事にやりがいを感じている方もおられるだろうが、そんな人はごく一部の例外に過ぎない。たいていの人にとって労働とは人生に苦痛を与える要因の筆頭だ。

では、なぜ人はそんな苦しい労働をするのだろうか。

この問いに答えるのは至極簡単だ。回答は「お金を稼ぐため」オンリーだろう。お金を稼ぐことで労働者は生計を立てる。これは貨幣経済が登場する以前よりも続く人類社会の宿命と言える。

労働者は労働によって受ける苦しみを、労働によって獲得する賃金によって補填している。このことを単純な数式で表現してみよう。

「労働による苦」+「貨幣獲得による楽」=0

苦はマイナスで、楽はプラスだ。労働によって被る苦というマイナスを、貨幣の獲得による楽というプラスで補う。マイナスとプラスを足し合わせるとゼロになる。実に簡単な計算式だ。

いや、違う。

ちょっと待って欲しい。果たしてこの数式の答えは本当にイコールゼロだろうか? 「労働がキツすぎる…」や「賃金が安すぎる!」といった不満を現代社会の多くの労働者は抱えているのでないか?

「労働による苦」+「貨幣獲得による楽」=0?

等式の右辺は「=0?」としておくのが無難そうだ。

さて、この記事ではそんな現代人が色々と腹に据えかねがちな「労働」というものについて書いていきたい。予め言っておくが、この記事では「労働によって世に生み出されるのは多大な苦しみである」「労働は人心を破壊して世界を崩壊に導く」という結論に至る。何を大げさな、と感じた方には是非最後まで読んで頂きたい。

〇すべての労働は消費者の「楽」に通ず

労働について語る際に一つの原理原則を提示しておきたい。それは「この世の全ての労働は、消費者の『楽』を生み出すためにある」ということだ。これを以下に図示する。

すべての労働は消費者の「楽」に通ず

一つずつ見ていこう。

まず、農業・林業・漁業などの「第一次産業」は、農作物や木材、魚介類を生産する産業なわけであるが、いったいこれは何のために行っているのかというと「それを得た消費者の『楽』を生み出すため」に他ならない。例えば農作物は、それを作っただけでは何の意味も効果もない。それを食べた人が生命と健康を維持増進し、そこに人としての「楽」が生まれるからこそ、農業は価値ある産業として成立しているのだ。

同じことが鉱業・建設業・製造業などの「第二次産業」でも言える。自動車を作ること、家具を作ること、家電を作ることだけでは何の意味もない。それが消費者の元に届けられて、何らかの利便性をその人の生活に提供し、消費者が人としての「楽」を抱いて初めて、工業の目的は達成されるのだ。

このように、第一次産業と第二次産業は何らかの有形の価値ある物体(有形財)を作り出す産業なわけであるが、その目的はそれを消費する人の「楽」を生み出すためであると言えるだろう。これは第一次産業と第二次産業に従事する労働者の働きが、すべて消費者の「楽」の創造につながっているということを意味している。

そして、そんな有形の価値ある物体を消費者の元に届ける産業が、流通業や小売業などの「第三次産業」である。大半の農家は自らが生産した農作物を直に消費者に売るわけではない。生産物は小売業者の手元に渡って、彼らが農家の代わりに売るのである。第三次産業では、第一次産業と第二次産業の労働者が生産した有形財を消費者に届けること自体を一種の生産活動とみなす。そして、その活動は第一次産業と第二次産業の場合と同じく、消費者の「楽」を生み出すために行われるのだ。

また第三次産業の中には、より直接的に消費者の「楽」を創造する業種も含まれている。それがサービス業だ。この業種では、農業や製造業などのように価値ある物体は一切生産されない。有形のものに依らず、直接消費者に無形の「楽」を提供すること、それがサービス業の何よりの特徴である。そして無論だが、これに従事する労働者の働きは、当然消費者の「楽」を生み出すために行われる。

すべての労働は一切の例外なく消費者の「楽」に通ずる。この原理は上で述べたような一般的な業種(農業・林業・漁業・鉱業・建設業・製造業・流通業・小売業・サービス業など)の労働以外にも当てはまる。例えば、極端な例だが「殺し屋」にもこの原則は該当する。殺し屋が殺しという労働をするのは、依頼人の「邪魔な奴がいなくなってくれて良かった」という「楽」を生み出すためであるからだ。

〇その労働は割に合うのか、その消費は割に合うのか

ここまでの内容をまとめると、以下のようになる。

すべての労働は労働者の「苦」を生み出す
すべての労働は消費者の「楽」を生み出す

労働者は労働によって「苦」を受けるが、その対価として貨幣(賃金)の取得という「楽」を受ける。それと反対に、消費者は消費によって「楽」を受けるが、その対価として貨幣(代金)の喪失という「苦」を受ける。図示してみよう。

労働者と消費者

さて、私たち現代人は「労働者としての私」と「消費者としての私」という二つの側面を持ち合わせている。

労働者としての私は「この労働によって受ける『苦』と、この労働によって受ける貨幣(賃金)取得による『楽』は、果たしてつり合うのか?」すなわち「その労働は割に合うのか?」を気にする。一方で、消費者としての私は「この消費によって受ける『楽』と、この消費によって受ける貨幣(代金)喪失による『苦』は、果たしてつり合うのか?」すなわち「その消費は割に合うのか?」を気にする。式にすると、以下のようになる。

労働者)「労働による苦」+「貨幣獲得による楽」=0?
消費者)「消費による楽」+「貨幣喪失による苦」=0?

先述した通り、苦はマイナスで楽はプラスだ。苦というマイナスと楽というプラスを足し合わせて、それがゼロになるか、それともプラスになるか、はたまたマイナスになるかを、私たち現代人は知らず知らずのうちに勘定しながら生きているのだ。

さあ、この勘定は実際のところはどうなのだろう? それぞれの式の右辺の「=0」は本当に成り立つのだろうか? 真の右辺は「<0」になるのではないだろうか? もしくは「>0」ではないか? それとも、労働者としての式では「<0」であるけれど、消費者としての式では「>0」になるのではないだろうか?

しかし、ここで思い出して欲しい。この記事の主題は「反労働主義」であった。そう、式の右辺は「<0」だ。苦楽の勘定は負(赤字)になるということを私は主張したいのだ。

苦と楽の総和が、なぜ負になるのか。その理由を詳しく後編で書いていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?