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夜明けの余韻 2nd

高円寺から歩くこと三十分。阿佐ヶ谷駅に着いた。
高架下の飲み屋街をなぞりながら歩いたため、三十分という時間が短く感じた。
首元にじわりと汗が垂れる。

阿佐ヶ谷駅近くのコンビニで御不浄を済ませ、次の目的地である「喫茶 天文図館」へ向かった。Googleマップだと着いたことになっているけれど、なかなか見つからなかった。何度も同じ道を通ったり、少し離れてまた近づいたりして、ようやく見つけた。
僕の目はちゃんと付いているのだろうかと心配になった。

店内に入ると年齢は若いであろう、笑顔が素敵な好青年がカウンターに立っていた。
「二階へどうぞ」彼はこう言った。
足元が見えないほどの照明の暗さで、少し階段でつまずいてしまった。しかしそんなことはどうでも良い。二階はどんなところなのか。どう言った空間が広がっているのかと、どきどきしながら焦燥に駆られながら、火照った耳を冷ますように一歩一歩階段を上った。

ノスタルジック。エモーショナル。レトロ。
この言葉がぴったりな場所だった。
淡いランプで照らされた机。大きな地球儀。見上げられるほどの大きい本棚。
仕事から帰ってくると部屋を常夜灯にして過ごすのが好きで、情報量を少なくした雰囲気がなんだか似ていて嬉しかった。

独り占めできる端っこの机の前に座る。
目の前には手紙が置かれている。
店主の字だろうか。丁寧な字で綴られていた。

小腹が空いたのでオムライスとオレンジジュースを頼んだ。
しばらくして彼が早足で僕のところにやってきた。
その表情は悲しげで申し訳なさそうな顔をしていた。
オムライスはすぐにはできないらしく、ナポリタンならすぐにできるとのことだった。
僕はお腹が満たせればそれで良かったので承諾した。
彼は頬を引っ張り、目を細め、口角を上げた。そして少し手を挙げた。

居心地が良かった。いつまでもここに居られると思った。
僕の世界から時間の感覚が無くなった。

銀色のトレーに乗ったナポリタンが両手の間に収まった。
右手でフォークを握る。
くるくるとフォークを回し絡めながらナポリタンが服に飛び散らないようにそっと口に運ぶ。
口の中に広がったケチャップの香りが鼻に抜ける。
そしてゆっくりと咀嚼すると優しい味が喉元を通る。
オレンジジュースの入ったコップに口をつけると、ナポリタンの彩の中心であるピーマンが口腔から胃に行きつくまでのスピードが速くなっていくのを感じた。
胃がだんだんと満たされていく。
それらと一緒に天文図館の空気を同時に肺に取り込んでいく。
肌に潤いが戻り、心に空いた穴が埋まっていく。
空いた穴の形、大きさはばらばらなはずなのに。

何時間経っただろうか。
携帯のロック画面に四桁の数字が並んでいるが、それを見てもそもそも何時に入店したかわからなかったから、考えようがなかった。
ただ一つだけ言えることはものすごく集中して本を読むことができたことだ。
良い感じのところで本を閉じて端に寄せる。そして右端に積まれた手紙を手に取り、じっくりと読んでいく。
鼓動の速度が徐々に上がる。
アール座読書館はメモ帳であったが、天文図館は封筒に入った手紙であった。封筒から手紙を取り出すときの緊張感は新鮮だった。

そして僕も書こうと、白紙の手紙を胸の前に置き、立ててあったペンを右手に持った。
一息ついて、ペンを走らせていく。
誰に向けてなのか自分でもわからない。
けれど自分の気持ちを整理したいという思いと、誰かに届いてほしいという想いのどちらも兼ねそろえていた気がする。
漆黒のペンは純真な目をしていた。
どこまでもどこまでも届いていきそうだった。

最後の「す」という文字を書き、句点をつけた。
日付と自分だけが分かるアルファベットの愛称を手紙の端に書いた。
身軽になった腰を上げ、この空間を、手紙の内容を、噛み締めるようにゆっくりと階段を降りた。

会計を済ませ店を出ると、ハートマークに赤色が戻っていることに気がついた。

おぼろげな夕陽が純情な街を優しく包む。
阿佐ヶ谷には下町を感じられる風情があった。
歩いていてなんだか気持ちが良くなり、顔を顰めた。思わず泣きたくなった。
線路沿いを歩きながら、自らの中に蔓延るいろんな声を丁寧に紡ぐ。

なんで生きてるんだろう。自分は何がしたいんだろう。
悪いことが重なり、どんどん自分追い込んでしまった。
団地に流れる音楽が僕の肩を揺する。
誰にも吐き出せず一杯いっぱいになってしまった。
アール座読書館の静寂が胸を過る。
ひとりが好きなんだけど、ひとりじゃ寂しい。
そんな自己矛盾を抱え、今日まで生きてきた。
水槽の前に座った彼女の横顔を思い出す。
何を書いていたんだろう。何を考えていたんだろう。
それでも地面に身を放り投げることを選択しなくて良かった。
生きてさえいれば生きててよかったと思える時が必ず来る。
メモ帳には自分を褒めることが大切と書いてあった。
この日のために生きてきたと思える時が必ず来る。
死んじゃったらそれを感じられないじゃないか。
細胞から万雷の拍手が全身を鼓舞する。
血管が湧き立ち、スターティングオベーションで僕を迎える。
明日から頑張るぞ!そう気合いの入るものではなかった。
生きててよかったな。
天文図館の店主から頂いたミレービスケット。
また少し生きてみようかな。
高架下の飲み屋街。
そう思える現実逃避だった。
いつでも逃げていい。
電光掲示板には「気温 33°」と赤く表示されていた。
居場所は会社だけじゃないんだから。
もうこんなに自分を苦しめるのは止そう。
陽射しが少しづつ弱くなり、視線を上げた。
明治大学校舎が僕を見下ろす。
また来たいな、また会いたいな、辛いときはここに逃げ込もう、次は話してみたい、そういった場所や人が増えていくという実感が得られたとき、弱虫は消え、ストレスは消え、前を向けるんじゃないかな。
ハートマークに鮮血が戻り、頬が赤くなった。
自分で自分に対していいねマークを押す。
砂袋はもう持っていなかった。

中野駅構内。
ホームは多くの人でごった返ししていて、電車内は満員御礼だった。
息苦しさが東京に来たんだと心底感じられた。
長く感じた四分間を乗り越え、アナウンスは新宿の名を告げた。

先輩と話した時、自分と決め事をすると良いと教えてくれた。
三か月前、僕は22歳の誕生日に新宿の夜を歩きながら目標を立てた。
「ひとりで抱えない。人に頼る。物事を勝手に進めない」
なんだ少しづつ意識して守ってきたじゃないか。

最後に訪れた新宿にある「新宿DUG」
ジャズが流れ、煙草の匂いが充満する店内。
二つの喫茶とは全く異なる店内であったが、騒がしさが気にならない居心地の良い雰囲気で、「目を合わせるということ」の終着駅まで僕を乗せていってくれた。
ハートマークの形が元に戻った。

店を出るとあたりは暗くなっていた。やはり新宿の夜は美しい。
三か月前の自分と同じく新宿の夜風を浴びながら、いくつかの目標を頭に浮かべた。
・早く寝ること。(特に休みの時こそ)
・なるべく毎日お風呂に浸かること。
・必要以上に自分を責めないこと。自分を褒めること。
・いつまでもくよくよしないこと。考えすぎないできっぱりとやめること。
・お金を使うこと。
・思うまま感じるままに生きること。素直になること。
・幸せを恐れないこと。
・朗らかに、生きることを楽しむこと。
メキメキと音を立てて殻が割れていく。

自然とできないんだから少し気を張って意識してやっていくしかない。
大丈夫。絶対に夜は明ける。止まない雨はない。
夜が明けたときの安堵感に似た気分が身や心を充実していく。
自宅に着くまでの道中、今日の出来事をなぞり、余韻に浸る。

浸りすぎて溺れそうになってしまった。
まぁ溺れてもいいだろう。
それくらい楽しかった。

見慣れたアパートが顔を出した。ドアノブをゆっくり引き、部屋に入る。暑かったのでエアコンをつけ腰を下ろした。そしてリュックを開けると煙草の香りが微かに鼻を揺らした。

大丈夫。僕は生きている。
大丈夫。明日を恐れないで。自分には自分がついている。


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