苦しみから逃れたいから死にたい。でも自殺に伴う痛みは存在する。失敗したらさらに苦痛だ。自殺は苦しみから逃れる手段として相応しくないのかもしれない。と言いつつ死にたい気持ちは消えません。

生きるのが苦しい。
未だに信じられない。毎日楽しんでる人がいるとか、死にたいって思わない人がいるとか、明日が来ることが楽しみな人がいるとか。
生きるのが苦しいと思ったことのない人と日々自殺を考えている人で、死の身近さが全く違う。

あちら側の人は心の底から人生を楽しんでいる。
そのまま幸せでいてほしいなと思う。
人生の全てに絶望し、永続的に苦しみを感じるようになり死ぬことだけが自分が楽になれる手段だと考えるようにならないでほしい。
出来ればこの世に生きるすべての生き物が幸福を感じてほしい。
でもそれは難しいことらしい。



私の苦しみの形はどんどん変化している。年齢を重ねたり、お酒を常飲するようになって思い出せないことが増えた。何にどれだけ苦しみ、どのように向き合ってきたのか言語化しなければならない。私が生きて成し遂げたことは苦しみと向き合ったことくらいしかないのだから。

年齢を重ねるうち、苦しみに少しずつ慣れてきたような気がする。苦しみと向き合い考えて耐え忍ぶことを修行と私は勝手に呼んでいるが、修行してきたかいがあってか初めて死にたいと思った12歳の頃より今の方が生きやすい。


だから早く歳を取りたい。歳を取ればとるほど苦しみを扱えるようになっていくから。苦しみが消えることはないが、向き合い方や扱い方がわかれば苦痛や失敗の伴う自死を選ばなくて済む。

友人は歳を取りたくないと言っていた。

子ども時代を満足に楽しめた人はそう思うのも無理はないのだろうなと思う。私は過去に戻れるとしても絶対に戻らない。もう一度この人生を歩むなんて考えられないし耐えられないからだ。

私は死にたい。苦しみから逃れたいからだ。
だけど自殺には痛み、即ち苦しみが伴う。
死なない可能性もある。自殺未遂者の末路は悲惨だ。自分で動くことも食べることも息をすることもままならず褥瘡は身体に穴を開ける。私はそれを苦しみだと思う。
そうなると自殺で苦しみから逃れることはできないことに気づく。

どうすればよいのか。
こんなに苦しみに満ちていて、12歳の時に初めて思ってから今も新鮮な気持ちで毎日死にたい。苦しみから逃れたいのだ。この先また何十年と生きても恐らくまだ死にたいと思うのだろう。
そして今思っているようにこう思うのだ。あの時死んでおけばここまでの苦しみを感じずにすんだのに、と。

どちらが正しいのかわからなくなる。
苦しみから本当に逃れられるのは自殺か、そうでないのか。

まだ自殺によって死んだことがないのでこればっかりは結論を出すことができない。

でも自殺による苦しみが生じるため自殺は苦しみから逃れる手段ではない、という先程の考えの通りとりあえず自殺はしない方向で生きていこうと決めている。

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