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私の好きなリサイクルショップ

リサイクルショップが、好きだ。セカンドハンドショップ、とも言う。一度でも誰かの手に渡った品物を、再び売りに出している店のことである。我が家のみな、リサイクルショップが好きだ。

住む家の、近く。電車でひとつ先の駅だとか車で10分程走ったところに、リサイクルショップはある。その中には慈善活動の一環として営業しているものもあり、いかにもスウェーデンというか、北欧らしさを感じる。不要になった物を集めて売りに出し、その売り上げは難民や恵まれない人々のために使われるという。私が普段行くリサイクルショップは、日本人からしてみると、フリーマーケットのようなお店が店舗で展開しているといったところであろうか。私はこの手のリサイクルショップに、何か適当な用事を見つけては、行っているようにおもう。何かを買ったところで大した金額にはならないし、品物を買った金額が社会活動に還元されるとあれば、いい気になって、あれもこれもと買ってしまう。あれやこれやと細々と買い物を楽しむのが、私なのだ。

店内の、隅から隅までぎっしりと並べられた品々。一度は人の手に渡ったものなので、使い古された物や新品の物、それぞれに品物の状態は違っている。そんな様子を見ること、それもまた楽しい。その中でも特に、台所用品の売り場が愉快である。塗装が剥げているフライパン、古い型の重くて大きいクッキングスケール、箱にざあっと入れられたフォークやナイフ、錆びたクッキーの缶、チーズおろし器、蝋燭スタンド、ボウル、バターナイフ、イケアのおたま・・。どれもこれも、新旧の品物が雑多に適当に並べられ、こんなものまで売るのかと、びっくり楽しいこともしばしばである。なんだか実家の整然としない台所を見ているようで、居心地が悪くなるような気もする。
そんな台所売り場の一角を、まずは最初に目を通す。うず高く棚に並べられたグラスや皿を目にするのは、何だか気持ちがいい。同時に、足を踏み外してそれらをガシャリと割ってしまわないかと、ヒヤリとする。ひっそりと身を屈め、ふうむと物色する。

がらくたの中から、自分だけにぴったりと合う品物を見つけるのは、快感だ。
それは、難解なパズルのピースを探し、当てはめる感覚に似ているだろうか。まだ見ぬ自身のパズルのピースを求め、リサイクルショップは私を導く。

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リサイクルショップに足繁く通うようになったきっかけは、一体何だったろう。スウェーデンに越した当初、現地で確認することもなくメールのやり取りだけで契約した、家具付きのアパートに住んでいた。その時は家具やその他備品を必要とすることがなかったのだが、一軒家を購入してそこに越す時に問題が発生した。新居に越すにあたり、全ての家具を揃えなければいけなくなった。ダイニングテーブルから椅子から電球のソケットまで、何もかもが必要だった。家具の全てを新品で揃えるのには、お金が足りない。だけれども、イケアで買うのは極力避けたい。そのような経緯があって、私のリサイクルショップ巡りは始まったのだ。


こんなふうにしてリサイクルショップに通うようになったのだが、それに拍車を掛けるようになった要因がある。息子だ。息子は、とてもとてもミニカーが好きなのである。あれやこれやと理由をつけては(理由がなくとも)、おもちゃのカタログや幼児向けの雑誌を片手に、ミニカーを買ってよと迫ってくる。それに対して「お金がない」だの「パンツをちゃんと履けるようになってから」だの、買わない理由について、苦しい返答をしてしまう。そこで丁度いいのが、リサイクルショップだったのだ。


リサイクルショップに行くと、たいていの子ども用品売り場にはミニカーがずらっと並んでいて、それが安価で売られている。大小のミニカーが、10〜30クローネで買えてしまうのだ。そうなると私のお財布の紐が緩くなるのはもちろん、自分も息子と一緒になって、ミニカー選びについ熱が入ってしまう。これとそれ、じゃあこれもいいよと、複数買いをしてしまう。ヴィンテージのフランス製のマジョレットを探すことが、私たちのリサイクルショップでのお決まりごとになっている。
リサイクルショップに並んだミニカーは現行の販売品とは違い、それぞれにどこからかやってきた経歴があるので、それがまたも、いちいちと面白い。塗装が剥げていたり、窓がなかったり、タイヤがちゃんと動かなかったり。前の所有者の子どもがたくさんこの車で遊んだのだなと、その遊んでいる様子をぼんやりと想像してみる。とても、楽しい。

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こんなことも、あった。


リサイクルショップに行くことを常としているので、その習慣が旅先や出先でもついてくるようになった。先日、ドイツのハンブルクに行った時である。滞在中、パートナーは朝から夕方まで仕事なので、私と子どもの二人で市内を観光した。その時の観光の中心になったこと、それがリサイクルショップ巡りだった。私が個人的に興味のある場所を訪れても、子どもは面白くなくてすぐに飽きてしまうので、行きたい所をがっつりと周るような観光は、できない。なので、リサイクルショップを中心にして行きたい場所も少し入れつつ、というような観光スタイルで過ごした。これが、とてもよかった。移動でバスや電車に乗り、観光地ではない住宅地のエリアを訪れたりと、それだけでも十分に楽しかった。よく知らない街の建築現場を眺める、そんなこともいいものだ。


そんなふうにして出会ったのは、一軒の小さなアンティーク屋だった。実際、スウェーデンでよくあるようなリサイクルショップというものが、ハンブルクには殆どなかった。訪れたリサイクルショップにがっかりして肩を落とし、外も暗くなってきて繁華街まで歩いていく道すがらに出会ったのが、そのアンティーク屋だった。
店の前にはいくつかの置物と、女性ものの古着がハンガーで吊ってある。一度は店の前を通り過ぎたものの、やはり気持ちが残るので、道を引き返して店に入った。店内は普通のアンティークものとリサイクルショップ的なものが入り混じる、小さなコンビニエンスストア位の大きさだった。一見さんは馴染みにくいお店かなと思いきや、陽気なおじさん店主がドイツ語で愉しげに迎えてくれて、拍子抜けした。

ものでぎっしりと詰まった狭い店内は、割とお客さんでいっぱいだった。店内の隅には子どものおもちゃが入った籠があり、「子どもはそれで遊んで、ママは買い物を楽しんでね」と、朗らかに言ってくれて、私はゆっくりと買い物を楽しむことができた。その子ども籠の中からおもちゃをひとつプレゼントだよと言うので、息子はけろけろけろっぴの鉛筆削りを貰った。

アンティークものとなると、十数年前の服飾品や家の飾り品を見るのが楽しい。たとえ自分が身につけることがない品でも、その品の当時や誰かが身につける姿を想像するのがいい。服はサイズが合わないものが殆どだから、いつも残念におもう。

結果、クラシックカーの絵の大きなブリキ製の飾板と、デッドストックのイタリア製のタイツと、ワインボトル用の籠(傾けても、こぼれない)を選んだ。どれも、スウェーデンでは見たことのないものだ。
合計で20ユーロにも関わらず、そこから3割も引いてくれた。商売っ気が全くないところが商売上手だといってよいのだろうか、そんな感じがする。支払いにクレジットカードが使えるかと聞くと、おじさんの表情はぐわっと変わり、現金について熱弁し始めた。レジから自分の財布を取ってきて、「お金は現金じゃあないと、こうして目に見えないとね。現物が全てだ、ほらほらっ」と手を大きく振って現金を見せてくる。スウェーデンで知っているアンティーク屋でもそうだが、キャッシュレスが当たり前になっているこの時代に、現金払いができないお店もたくさんある中での現金支払いのみというこの構え。まさに、アンティーク道を貫く、である。


おじさんにわざわざATMまでの道を教えてもらい(お客さんによる英語の翻訳で)、ATMでお金を引き出して、店に戻った。会計時もおじさんはとてもよく私たちに接してくれて、子どもにと、さらにお土産をたくさんくれたのだった。小説に出て来そうなお店だって、本当の世界で存在もするんだなと、しみじみとおもう。世界の片隅の町のどこか、夢みたいなことにまだまだ出会えるということ、ほっとさせられる。

家の近所でも旅先でも、わたしはこれからもリサイクルショップを訪れる。新たな我がパズルのピール、そして子供のミニカーを求めて。

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