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胸骨正中切開で縦隔腫瘍を摘出した話(4:検査結果)

検査結果

9月上旬に胸に違和感を感じてから、あっという間に約1ヶ月が経過した。
Tシャツやポロシャツ1枚で過ごせる季節は過ぎ去り、シャツやジャケットが必要な気温になっていた。
日常生活は相変わらず気が休まる時がなく、時間があれば縦隔腫瘍について調べていた。
しかし、とにかく情報が少ない。
同じ闘病記や論文が何回も出てきて、本当に症例の絶対数が少ない病気なのだなと実感した。この辺りから自分の症例も少しでも役に立てればとメモを取ることにした。

緊張しながら診察室に入った。
判決を言い渡される被告人も、あるいはこんな気持ちなのかもしれない。もはや自分に出来ることなど何も無いはずなのに、何か出来ることはないかと考えていた気がする。
医師のパソコンには過去に受けた3つの検査結果が表示されていた。
てっきり検査画像を見ながら医師が逐一診断をしていくものだと思っていたが、既にそれぞれの検査結果について数ページにわたり事細かに分析結果が記載されている。
「専門の解析医がいるんですよ」と医師が言った。
自分ひとりを救うために、目の前の医師だけではなく、背後に多くの人達が動いてくれているのだと実感した。
「PET-CTの結果、腫瘍周辺にやや反応がありました」
言葉を聞いて落胆した。
胸腺癌だったのか。
20万人に1人の胸腺腫のうち、さらに数%の確率の宝くじに当たってしまったのか。
「ですが、腫瘍マーカーや造影MRIに異常はありません。この2つの検査結果は、55さんの体内に悪性腫瘍が無いことを示しています」
「……どういうことでしょうか?」
「実はPET-CTの造影剤は腫瘍以外に、炎症部分にも集積する性質があります。これは腫瘍の一部が破裂して中身の消化酵素が漏れ出し、周囲の組織が炎症を起こした事による反応の可能性が高いと思われます。私も解析医も同じ意見です」

消化酵素?

「この腫瘍はおそらく奇形腫です。奇形腫というのは簡単に言えば、幼少期に身体の様々な部位になるはずの胚細胞が迷入し、何らかのきっかけで成長して腫瘍を形成してしまう病気です。腫瘍の中身は歯や毛髪、脂肪組織や膵組織を作ることが多い。膵組織は膵臓と同じく消化酵素である膵液を作るので、漏れ出すと周辺組織を自己消化して炎症が起こります。また、CTを見る限り腫瘍の中身の大半は脂肪組織だと思われますので、奇形腫である可能性が高いかと」
「つまり良性ということでしょか?」
「良性です。詳しくは腫瘍を病理検査にかけなければ分かりませんが、奇形腫であれば胸腺腫よりも良性度が高いですよ」
袋に詰まっていた石が取り出されるように、気持ちが軽くなるのを感じた。
良性腫瘍。
まさかの奇形腫。
胸腺腫や胸腺癌よりもはるかに発症率の低い奇形腫だ。
「奇形腫自体がかなり珍しい症例です」と医師が言った。「今回のように破裂でもしない限り自覚症状が無いままどんどん成長して、やがて肺や心膜(心臓を包む膜)に癒着し始めます。そして放置すれば癌化することもあります。私が過去に診た例では、奇形腫が肺の半分を押し潰すまで成長し、ようやく息苦しさで来院された方もいますよ」
おそらく9月の上旬に胸に痛みを感じたまさにその瞬間こそが、奇形腫が破裂して周辺組織が炎症を起こした時だったのだろう。

※奇形腫
身体の様々な部位になる胚細胞が迷入し、腫瘍として成長する。腫瘍の内部は歯、皮膚、毛髪、気管支、膵組織などで満たされている場合が多い。自覚症状が無い場合が多いが、肺の中で破裂した場合に歯や毛髪が喀出(痰などと共に吐き出されること)されて気が付くことがある。身体の中心ラインで腫瘍になることが多く、女性は卵巣、男性は胸部、そして子供は脳に発症することが多い。

手術について

診断結果はごく初期の奇形腫であり、手術可能。
不幸中の幸でホッと胸を撫で下ろしたが、安心したのも束の間。医師はまだ難しそうな顔をしていた。
「良性は良性なんですが、腫瘍ができた場所がかなり厄介です。本来この大きさ(4〜5cm)の腫瘍であれば内視鏡手術で対応可能なのですが、55さんの場合は上大静脈(脳から心臓へ血液を戻す最大の静脈)という生命に関わる重要な血管に癒着しており、仮に出血したら大変です。普通の血管ではないので、内視鏡であれば止血がかなり難しく、胸骨正中切開に移行することになります。安全性を考えると、最初から胸骨正中切開で手術をした方がリスクが少なく確実です」

※胸骨正中切開
鎖骨の間から鳩尾にかけて大きくメスで切り、胸骨をノコギリで割り、万力で開いて行う手術。術野が確保しやすいというメリットがあるが、侵襲(手術のダメージ)がかなり大きい。

それぞれの術式


術式についてはカンファレンス後に結論を出すということで、2週間後の外来で報告するとのことになった。
胸骨正中切開となれば大手術である。
医師からの説明や帰宅後に調べたことで、それぞれの術式にはメリット、デメリットがあることがわかった。

◆胸骨正中切開のメリット
・術式自体の歴史が古いため実績が多い。
・広い術野で咄嗟のトラブルに対応しやすい。
・胸骨周辺には神経が少なく、術後神経痛が起こりにくい。

◆胸骨正中切開のデメリット
・割った胸骨が元の強度に戻るまで3ヶ月は行動制限がかかる。
・縦隔炎という命に関わる重大な合併症の危険がある。
・鎖骨の間から鳩尾まで大きな手術痕が残る。

◆内視鏡手術のメリット
・骨を切ることがないため、入院や社会復帰までの日数が短い。
・傷跡が目立ちにくい。

◆内視鏡手術のデメリット
・術野が確保しにくい。
・咄嗟のトラブルに対応できず、胸骨正中切開に移行することもある。
・肋間神経を傷つけるため、術後神経痛が発生する可能性がある。

自分は特に希望を言うことはしなかった。
中には「絶対に内視鏡にしてほしい」という患者もいるらしいが、上大静脈が出血すればどのみち胸骨正中切開に移行することになる。その場合傷跡は手術2回分だ。
結局「俎上の鯉」なのだ。
すべてお任せします、とだけ言って病院を後にした。
そして2週間後、胸骨正中切開で行うことが決定した。


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