ほどけても紐はある

皆さんは電車のなかで、どんどん過ぎ去る窓外の風景(地下鉄なら壁)を眺めていて、まったく眼球を動かさずにいることができるだろうか。たぶんできないだろう。窓外を眺めている人の眼球はめまぐるしく動いている。とくに景色を見たいわけではなくても、なぜか過ぎ去るものを追ってしまう。もちろん、わたしもそうである。

両目の視線は平行ではない。何かに焦点があう以上、そこへと両目の視線は集中する。遠景を見る場合なら限りなく平行には近づくだろうけれども、厳密には平行ではない。遠景のなかの何かを見ている。

けれども、ぼんやりしているとき。近くにあるものが二重になることがある。はっと意識が戻るや、それに焦点があう。平行だった視線が、再びそれへと集中したからだ。それが遠くのものであれば、ぼんやりしていても二重にはならない。だが、見えてはいるが何も見ていない状態ということもある。

神学生のころ、地蔵院に行った。深緑に息を呑む寺だった。寺でも縁側というのかは知らないが、庭園に面した開けた廊下があった。柱に「ここで寝ないでください」と注意書きがあり、たぶんよほど居心地がよいことが察せられた。わたしは廊下に腰を下ろし、庭を眺めていた。

しばらくすると、不思議な状態になった。不思議とは言っても、それは後で気づいたことである。その時は不思議とも何とも思っていなかった。わたしは庭を眺めていたが、何も見ていなかった。いや、すべてを眺めていた。しかし、庭「と」わたし、というような感じではなかったのである。さりとて、神秘的に庭もわたしも一体となった、というような大げさなことでもなかった。

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