名前を呼ばれる

むかしのことだが、教会に来るようになった人が、こんなことをおっしゃった。
「ここでは名前を呼んでもらえるのが嬉しいんです」

独り暮らしをしている、他人とあまり接しない仕事をしている────その他様々な理由から、ふだん誰かと会話することがほぼない人。そういう人は、世のなかにけっこういると思う。日常生活のなかで、自分の名前が呼ばれることがない。コンビニのレジや病院の受付はどうか。サービス業のスタッフの多くは、高級なお店でもない限り客の顔を直視はしないだろう。アルバイトの店員や病院の職員は気まずさを避けるために、俯き加減で仕事をする。利用者は自分の顔をまっすぐ見てもらいながら会話をする機会がない。

個人のかけがえのなさが尊ばれる。それは、個人の「かけがえのなさ」というものがまったく実感されないからこそ、意識して声高に叫ばれるということでもある。この「かけがえのなさ」を趣旨とした、さまざまに美しい言葉が世の中には氾濫している。だが「世界でたったひとりだけのわたし」が、「世界でたった独りだけのわたし」だったとしたら?あなたはそれに耐えられるだろうか。だれとも深い関わりを持てず、これからの一生、誰からも名前を呼んでもらえないとしたら。

わたしは今、牧師をしている。必要に応じて人助けめいたことをさせて頂くこともある。だが正直に言う。それはわたしの自己実現である。人から必要とされているということ、人からわたしの名前を呼んでもらえる喜び、これがあるから続けられるのである。それが証拠に、わたしは無職の折、誰からも必要とされていないのではないかという不安につねに苦しめられたのである。誰からも声がかからないことにこそ、焦りと苛立ちを覚えたのだ。

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