健全な宗教内のカルト

カルトの宗教と、そうでない宗教とのちがいは何だろう。いつもそれを考える。たとえば、カルトではない教団の内部に、カルトの施設「も」ある、ということはありうる。

こういうことだ。日本全国に散在する施設を取りまとめる、包括団体としての教団がある。世間ではその宗教イコールその教団とみなされている。だがじっさいに活動するのは教団そのものというより、その教団と被包括関係にある、それぞれの地域に存在する施設、つまりそこに通う信徒たちである。教団には定期的に、全国の各施設から信徒議員などの代表が出てきて、総会をはじめとした、さまざまな会議が行われる。教団全体としては、とくにカルト的なリーダーも存在せず、また、会議においても多様な意見が飛び出してきて、ときには喧嘩腰にさえなるほど、その意見はさまざまである。

こういう場合、カリスマ的なリーダーの上意下達でなにもかもが決定されるわけではないのだから、その教団はカルト的ではない。たしかに、多様な意見がぶつかりあい、なかなか物事は前に進まないし、一つのことを決定するにもやたらと時間がかかる。喧嘩腰の宗教者を見れば幻滅する人もいるかもしれない。それでも、みんなの話しあいで何かが少しずつ取り決められてゆくプロセスを経ている以上、それはカルトとはいえない。

しかし、教団全体としてはカルトでなくても、その教団と被包括関係にある、全国津々浦々の施設のなかの、たまたま一つが単体でカルト化することならありうる。

それぞれの施設には責任者すなわち指導的立場にある者がいるだろう。たとえば、その指導者はきわめて優れた人物であると、そこに通う信徒たちから認知されるようになる。それ自体は施設にとってメリットになりうる。皆が指導者を尊敬し、協力的になれば、施設にも活気が生まれるし、一致団結して行動もしやくすくなる。いちいち意見が対立して何も決まらないというのは、ストレスも大きく、脱落者も生みやすく、つまり外から見て魅力的にも見えないから、新規の信徒を獲得しづらい。

だが、いちどみんなで優れた指導者とみなした人を、あとになって誰かが「じっさいにはそれほどでもありませんね」と指摘するのは、とても勇気が要ることだ。その誰かになろうものなら、施設を追い出されるかもしれない。指導者に対してどこかで違和感を覚えたとしても、今さらそれを口にすることはできない。

施設に長いあいだ貢献してきた人であればなおさらである。指導者に違和感を覚えたとしても、それを口にすることの困難や危険は、経験上身に沁みて分かっている。また、その違和感を認めるということ自体を認めたくない。なぜなら、もしもその違和感が「指導者はまちがっている」という根本的なものであった場合、その指導者に従ってきた、今までの自分は何だったのかという根源的な問いが、不安と共に立ち上がってくるからである。

一方で、指導者のほうも、振り上げた拳はいまさら下ろせないという心理的な圧迫がある。指導者にとっていちばん困るのは、おそらく、自分に違和感を持つ信徒もいると分かっていつつ、同時に、自分に賛同する者も相変わらず多いという状況である。今さら「わたしは間違っていました」などと言おうものなら、賛同者にどの顔を向けたらいいのか。殺されるというような物騒なことはないにせよ、その施設という社会においては、社会的な抹殺が待っているかもしれない。指導者が、指導を職務として生活の糧を得ているならばなおさらである。施設のメンバーから反目を買い、追い出されたら、どうやって生活していけばよいのか。指導者は自分の立場に固執すればするほど、もはや自分にも落ち度があることを認められなくなってゆく。

さらに、指導者は万能ではないので、誰が自分の賛同者で、誰が批判者なのかも完全には見分けることができない。賛同者と見せかけた批判者がいるかもしれない───そう思い始めたら、もう誰も信頼できない。誰の意見もあてにならないのであれば、自分独りで決める。異論は許さない。そうやって指導者は、その施設においてはカルト教祖のように振るまうようになってゆくだろう。

ある宗教の全体がカルトか否かという議論はとても大切なことである。一方で、いわゆるカルトではない宗教においても、上記のような理由で、いつでも施設単位でのカルト化は起こり得る。そのことを、わたしは忘れてはならないと思っている。わたしも牧師の端くれとして、今までいくつかの教会で牧会をしてきた。さいわい、どの教会の役員会もわたしのYESMANには決してならなかった。わたしが何かを提案すれば、その8割くらいは否決されたという体感がある。べつに被害妄想でこんなことを言っているのではない。わたしはそれが、教会の健全さの証左であると思っている。

わたしが優れたリーダーであるとみなされないことは、わたしに弱音をはきやすくもさせてくれる。上記のような、次第に誰も信頼できなくなり孤立してゆくリーダーは、もはや振り上げた拳を下ろせない以上、弱音などはくことはできない。うっかり弱みなど見せようものなら、という具合である。しかしわたしはちがった。もともとそこまで強い権力を持たない以上、「それはわたしにはできません」と、おのれの分を超えたことを求められたらはっきり断ることもできる。たしかに、自分がやる気満々で提案したことが否決されれば凹む。しかし、そのことと、わたしが弱音をはきやすく、従って、施設の重圧に倒れにくいということとは、表裏一体なのである。

拙著  弱音をはく練習 悩みをため込まない生き方のすすめ


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