葬儀に出よう

超常体験はここでは除外して考える。そして、わたしは牧師だが、あえて宗教的あるいは教義的な「来世」の話もわきへ置く。

わたしが大好きだったおばあちゃんは幽霊話に目がなかった。家にはたくさんの怪談本があった。おばあちゃんが死んだとき、わたしは訊きたかった。「自分が幽霊になった気分は?」だが、おばあちゃんは沈黙していた。

クリスチャンになってからだったと思うが、おばあちゃんが夢に出てきた。わたしが事故に遭って死にかける。するとおばあちゃんが「向こうから」やって来る。おばあちゃんは煙管をふかしながら「まあ、こっちも悪くないな」と生きていた頃そのままだ。わたしは尋ねた。「ねえ、イエスさま、そっちにいる?」「そんなもんおらへんわ」。「えええええ!?」自分の叫び声で目覚めた。悪夢とカテゴライズできるのかもしれないが、おばあちゃんと会えたのだからいい夢だったとも言えるし、難しいところだ。

まあ、夢はべつとして。死んで帰ってきた人はいない。「死んでみてどうでしたか」と尋ねることができない。ましてや、自分の死をたしかめることはできない。まだ生きているのだから当たり前だ。終活とはいうけれども、終わりについてとはいえ、活動はしているのだから、終わってはいない。つまり、わたしたちはそもそも死を「終わり」とすら認識できない。

わたしは今、机の上にあるキーボードを叩いている。木目調の机と、みるからにプラスチックのキーボードとは、境目がある。明るいグレーのキーボードを目でなぞっていくと、あるところからは合板の木目になる。キーボードを基準にして観れば、そこがキーボードの「終わり」である。そしてそこから先には木目という、新しい世界が「始まって」いる。ところが、死はどうだろう。わたしは、わたしの終わる境界線を観ることができるか。

キーボードと机との境目を観ることならできる。だが、境目を観ているこのわたしはまだ生きている。「ここから先は机、ここまではキーボード」というのは観て確認することができるが、同じようにして「ここから先は死、ここまでは生」という確認をすることができないのだ。廊下を歩いていて、非常出口の閉ざされたドアに突き当たるようなものか?それもちがう。そもそもドアに突き当たることさえできない。突き当たるなら、それが死の瞬間だからである。死の瞬間、ドアに突き当たったと認識できるかどうかさえ、わたしは知らない。まだ死んでいないのだから。

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