手持ちの言葉

わたしたちは日常的な経験を、自分の手持ちの言葉を使って人に伝える。わたしは東京に来て3年になる。なるべく礼拝でのお話は標準語で話そうと努めるが、力が入るとすぐに神戸弁丸出しになる。自分がいちばん伝えたいことは、どうしても自分の方言が出てしまうのだろう。もしもわたしが大学から上京していれば、標準語もまた自分の血肉となっていたかもしれない。じっさい、長く東京付近に暮らしている西日本出身の友人知人は皆、出身地を尋ねなければ東京が地元なのかと思うほど、当たり前のように標準語を使いこなしている。

言葉は意味を運ぶ道具というよりは、言葉そのものが意味を生み出す源泉でもある。わたしが神戸弁丸出しで何かを強調しているとき、神戸弁はたんに意味を運ぶ道具なのではなく、おそらくわたし自身、わたしの発する神戸弁に引っ張られ、鼓舞されて、何かを相手に伝えようとするのだ。そういう意味では、わたしの神戸弁の「背後」には、何もない。その言葉の抑揚にすべてが詰まっており、それは少なくともその瞬間には、複数ある他の表現からある一つを選択するというようなことはできない。咄嗟にその表現が飛びだしたといってよい。原稿を準備している礼拝でのお話でさえそうなのだから、まして日常会話ではなおさらのことである。

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