言葉が「こと、もの」になるとき

入院していた時に、トーベ・ヤンソン著、冨原 眞弓訳『小さなトロールと大きな洪水』を読んでいた。無味乾燥なベッドに居ながらにして、神秘の森や荒れ狂う大海原を鮮明に想像した。

「想像した」というのは正確ではない。勝手に向こうから迫ってきたのだ。わたしはベッドで上半身を起こして、その本を読んでいる。下半身は布団でおおわれている。ふと活字から目を離すと、布団のもこもことした凹凸が、トロールの旅する森や海として見えてくる。本を読み、本から目を上げれば、そこにトロールの世界が ─── 。入院という特殊な状況にあったからなのだろうか。体調や心理状態などの要因によって、なにかが研ぎ澄まされていたのかもしれない。神秘体験といってもいいほど、鮮明にトロールたちの世界が迫ってきた。その後もいろいろ本を読んでいるが、あれほど鮮明に世界が迫ってきたことはない。いわば、言葉がモノになった瞬間である。

旧約聖書に登場する「言葉」という語には、「こと、もの」という意味もある。とくに神が言葉を発するとき、それは空虚なセリフには終わらず、必ず事実として出来事(物体や現象、事件など)になる。だがわたしは、これは神に限らないと思う。人間、それも現代に生きる日本人であるわたしたちにも、神に比べて限定的であるとはいえ、言葉がモノになることはしばしばあるのだ。上記の入院中の出来事は、それがことさらに先鋭化したものである。

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