隣人の欲望こそわたしの欲望
それにしてもイエスの言葉の、なんと厳格で、実行の難しい言葉であろうか。独身の頃は、結婚すれば克服できると素朴に信じていた。だが、結婚したらしたで、妻以外の女性を、さらに情欲のまなざしで見るようになってしまった。
十戒は、以下のような言葉で結ばれている。
わたしはほんとうに、心から妻を愛しているのだろうかと自問する。だが、「心から」とは具体的にどのような態度をさすのだろう。そもそも愛とはフィクションで描かれるような、劇的なものであろうか。わたしにとって妻は同志のような存在といったほうがよいかもしれない。信仰や趣味を共有し、励ましあったり慰めあったりする。もちろんそれだけではない。生きる時間、喜怒哀楽といったものがそこから生じてくる地のような何かを、わたしは彼女と共に過ごしている。自分勝手かもしれないが、それを持続させることが愛だといえるならば、わたしは妻を愛している。
ある、自由な思想や行動を愛する人々との交流を持つ機会があった。その人々は「結婚にどのような意味があるでしょうか」と言っていた。つまり、結婚などたんなる因習に過ぎず、個人の自由な行動を妨げる、もはや時代に即さない営みではないかと。とくに女性にとっては、と。家族というコミュニティは人を縛るものである以上、もっといつでも出入り自由なコミュニティ、すなわち誰とでも好きなときに恋愛(セックス)をしてもよい、そのような生き方のほうがよいではないかと。
たしかに現代、夫婦というシステムは限界に近いようにも思われる。Lineなど「こっそり」連絡をとれるツールも増えた今、誘惑は大きい。夫婦との(セックスレスな)同じ毎日を過ごすよりも、刺激に満ちた新たな出会いをつねに求めよう。そうだ、もっとすばらしい、新たな出会いがあるかもしれないではないか───そう思い始めると、現状維持の夫婦という営みは、ますます色褪せた、退屈なものに映るかもしれない。
だが一方で、わたしはこうも思う。わたしたちはどこまで自由になれるのだろうか、と。十戒には、わざわざ嫌味ったらしく、こうある。「隣人の」妻と。ほかの男と生活をすでに共にしている女性の、その男には見せている、わたしの知らない顔を知りたい。そこに「隣人の」妻への欲望が生起する。わたしはこのところ性の話ばかりしているが、べつに不倫に限ったことではない。わたしはお洒落をするのが好きだ。インターネットに格好良いスーツの宣伝があり、「おっ」とそのサイトを開いてしまう。しばらくスーツの映像が、それの醸すイメージ世界が、頭から離れない。宣伝はほどほどに情報不足で、それがじっさいにどんなスーツなのかは隠されている。つまり買ってみなければ分からないわけだ。ああ、買いたい───それはわたしの「自由な」、すなわち自らに由る欲望なのだろうか。
自らに由って、すなわち自分固有の欲望により自由に相手を変えて恋愛しているつもりが、じつは「こういう女性と一夜を過ごすのが自由人の粋な生き方だ」という価値判断に縛られている。そういうことはないだろうか。わたしは妻と散歩をする際、人妻か独身かによらず、よその女性をちらちらと観てしまう。そのたび縛られていると感じる。「こういう女性が美しい」という、誰かから囁かれ、吹き込まれた価値判断に。
どの本で読んだのか忘れたし、ご本人も複数の場で言及しておられるとも思うのだが、末井昭さんが神藏美子さんといっしょに暮すようになったとき、お互い他に好きな人がいるときは正直に言おうと約束したと聞いた。それを読んだとき、正直、そんなことできるものかなと思った。ふつう隠すだろう、こっそり内に秘めるだろうと。だがわたしもいつの間にか、妻に「ほかの女性をきれいと思った」と話すようになっていた。妻も「ほかの男性をかっこうよいと思う」と話してくれる。こういう自由は上記のような、誰とでも気に入れば一夜を共にする自由よりはずっと小さな、ささやかな自由かもしれない。だが、わたしはこういう話ができる夫婦の生活を、風通しがよくて居心地よいと思っている。
たしかに夫婦はめんどうくさいシステムである。揉めることもあるし、離婚に至ることも多い。そんなシステムは時代遅れだから廃れてゆくだろうという意見にも説得力がある。じっさい、生涯を独身で送るであろう人々の数は確実に増えている。ただ、これはいつも言っていることなのであるが、出入りにまったく障壁のない、自由気ままなコミュニティというのは、コミュニティというよりは「たまたまそこに居合わせているだけ」の色合いが強くなる。
いつでも出入り自由、勝手気ままなのだから、飽きたり、嫌になったり、面倒だと感じれば、そこを去ればよい。ただし、わたしだけがそのように振るまえるわけではない。わたし以外の人もそのようにする、ということだ。わたしが困って助けを求めても、相手がわたしのことを面倒だと思えば、遠慮なくわたしを見捨てて去る。わたしもそういう前提でそのコミュニティに出入りしているのだから、文句は言えまい。
キリスト教は一夫一妻制で、浮気を赦さない結婚制度を、少なくとも建前では守ってきた。それは神の前に結婚を約束する行為であり、お互いを縛ることでもあった。ただ、その不自由さゆえに、お互いの意見がどうにも合わず、気まずい時にも、神に(実際には司祭や牧師、成熟した信徒などに)相談することで、その生活を維持し、夫婦協力しあって危機を乗り越えてきたのである。
わたしには、他人が欲望する女性を自分も欲望する性欲が、今なおある。これさえなければどんなに生きるのが楽だろうと思うことも多い。他人が欲望する女性の、自分には隠された秘密を覗き見たいという、この屈折した欲望。この性欲と付きあいながら、そのことを妻には正直に語り、妻と共に生きてゆきたい。
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生きること、死ぬこと、そのむこう
牧師として、人の生死や生きづらさの問題について、できるだけ無宗教の人とも分かちあえるようなエッセーを書いています。一度ご購入頂きますと、過…
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