わたしのなかの偶像

わたしには、恋愛対象とは思っていない人から言い寄られて心苦しく思ったり、気持ち悪く感じたりする人の気持ちは分からない。わたし自身が、そうやって意中ではない女性から言い寄られた経験がないからである。

しかし、想像することならできる。それはある苦い経験による。同業者、つまり牧師から執拗な嫌がらせの連絡を受けたことがあるからだ。わたしはその牧師と面識があった。わたしとしては、その人とは仲がよかったと思っている。お互いの仕事について語りあったり、いっしょにお酒を飲んだこともあったはずだ。わたしはその人を尊敬していたし、その人もわたしに好感を抱いてくれていたと思う。

だが、わたしがとあるバーで「牧師バー」というイベントをするようになり、いわゆる「牧師らしくない」言動をするようになった頃から、その人のわたしへの感情は変化していったようだ。最初はツイッター(現X)への嫌味たっぷりのリプライが増えてきたことから始まった。フェイスブックでも若干、そういうやりとりがあった。わたしはその人との、フェイスブックでのつながりを最初にブロックしたように思う。

あるとき、その人が働く教会の固定電話から電話がかかってきた。その人とは以前も電話で楽しく近況を語りあったことがある。だがそのときと今回とでは、受話器の向こうから聴こえてくる声色はまったくちがっていた。その人は怒鳴るのではなく、怒りに震えるような静かな声で言った。
「(ツイッターの)〇〇のフォローをやめろ。どれだけ教団に迷惑をかけていると思っているんだ」
気持ち悪くなったわたしは電話を切り、その電話番号から繰り返し鳴り続けるなか、着信拒否にした。するとただちに知らない携帯電話からの着信が鳴った。もう誰なのかは分かっている。おそるおそる電話に出ると、また同じ、青ざめたような震える声であった。
「なんで電話を切った。話をきけ」
わたしは早々に電話を切り、この携帯電話も着信拒否にした。

わたしはツイッターのほうもその人をブロックした。だがその人はどうやらいくつもアカウントを持っているようで、わたしを「観察」しては、あることないこと誹謗中傷し続けているようであった。わたしはそれらのつぶやきを見てはいない。気持ち悪くて見る気もしなかった。なぜ知っているのかと言うと、友人ら支援者たちが、その人が執拗なツイートを続けている旨、教えてくれたからである。わたしの手元にはブロックする前の、その人の誹謗中傷に満ちたダイレクトメッセージが写真で残っている。警察にも相談したし、必要とあればいつでも動くことは可能な状態にある。

たとえば男性からストーカーをされる女性の、ほんとうの気持ちはわたしには分からない。だが、上記のような経験により、わたしにもストーカーに執拗につきまとわれる気持ち悪さ、腹立たしさは想像できる。今はその人の相手をしたくないのに、その人からは執拗な連絡が来る。それも不愉快きわまりない連絡が。それはどんなにつらいことだろう。

だが一方で、わたしには、ストーキングする人間の気持ちも分かってしまう。むしろそちらのほうが分かってしまうかもしれないところが、自分でもつらい。

わたしが携帯電話を持ち始めたのは神学生のころ、20代も後半であった。どこからでも電話できるのは便利であったが、通話料が高くつくので、あまり使わなかった。わたしが使ったのは、もっぱらメールであった。パソコンからいちいち送るのとはちがい、いつでも、どこからでもメールできるというのは、わたしには新鮮な喜びであった。

しかし、20代も後半の、恋愛経験もまったくないわたしが、好ましいと思った女性と連絡先を交換してしまったのが、そもそもの間違いであった。当時のわたしは嗜癖行動などの問題性に無自覚であった。その女性に「好きです」と言ったわけではない。いっそ「好きです」と言って、さっさと振られておけばよかったのである。直接「好きです」とは言わず、わたしはメールをし続けたのだ。「今日は天気がいいですね」とか「お疲れさまです」とか。

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