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“我慢”が身体を殺す

 “我慢はカラダに悪い。ここでいう“我慢”とは、外敵から身を守るための“反射”に歯向かう行為とも言えるかもしれない。

 人は負荷を感じた時、身体を硬くしてストレスから身を守ろうとする。これは、動物が外敵に遭遇した際、瞬時に鋭敏な動きで外敵を交わしたり戦ったりできるようにプログラムされた反応で、予備緊張と言われるものだ。この反応が過剰に働いてしまうことで、必要以上に身体を固めてしまうのである。かかったストレスを適切に把握し、そのストレスに対して適切な対応を自ら行う。柔軟に受け止められるように反射が働けば良い。これが理想である。だが、人生というのはそう上手くはいかない。ストレスを適切に把握できないと、その後の対応もうまくいかない。つまり、気づかぬ間にストレスが蓄積しえる。

 本来は別の意味だが、“我慢”と似た意味をもった”継続は力なり”という言葉がある。これは、「何事も継続することで成功という結果につながる」ことを意味した格言で、自他を鼓舞するような、ポジティブな意味でよく使われる。確かにコトを成し遂げた人物というのは、マルコム・グラッドウェル氏のベストセラー『Outliers』において、成功へのマジックナンバーとして1万時間の法則を紹介しているとおり、生涯学習の世界で何度も引用されている。今回は氏の法則が本当に正しいのかは置いておいて、そのくらい大多数の人間からも支持されるほど、多くの人々の腑に落ちるのが容易なのが”継続”だということだ。
 継続が上達の必須条件だ、というのは私も同意である。だが、言葉の表面しか見ずに、”継続さえすれば必ず上達する”と、良いように解釈したがる人が出てくる。日々の生活の中で、体が疲れていることもあるだろう。今日は頭が重く感じられるが仕事を仕上げよう。、脚に少し痛みがあるが練習あるのみだから今日も走ろう。一見すばらしい心がけに見える。自らで自らに使命を課し、煩悩に負けず、ただひたむきにこなしていく作業は、人間離れした崇高なものに感じる。

 ただ、こういった崇高な物事に、人はたびたび思考停止しがちである。煩悩というのは、日々の”小さなカラダの声”とも言い換えることができる。つまり、煩悩を押さえつけてただがむしゃらに努力しようというのは、言い方は強くなるが、『怠慢』であり、『思考停止』した愚かな考えだ。それがどんなに神聖なものだったとしても、理屈が通っていなければ尊敬には値しない。『煩悩』はカラダの声と言ったが、だるい、サボりたいという声は、場合によっては『カラダの悲鳴』ともなる。もしその悲鳴を軽視し、聴く耳を養わずにうちなる悲鳴をシャットアウトし、頑に”形だけの継続”に勤しんだ場合、待っているのは成功ではなく、悪夢なのは想像に難くない。


 “我慢”は特に日本でもてはやされる。日本的な考え方として、耐え、忍ぶ、という静的で確固たる信念(下丹田)を非常に重要視していたからだろう。何事にも耐え忍び、辛いと思える環境でもその中から楽しみを探す、と言った考えだ。まさに日本的な美徳であるが、言葉のうわべだけを熱心に信仰してしまうと本質が見えにくくなる。
 確固たる信念を貫くには、目の前のことに闇雲に働く必要はない。やらなければいけない、と謎のプレッシャーをかける必要もない。必要なのは、思考停止してその場から動こうとしない”我慢“ではなく、自分から湧き起こる何かを丁寧に根気強く探す事、とにかく試行錯誤し動き続けることこそが、正しい努力であり、そういった方向性の”我慢”であるべきだ。


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