あの日を思う
※当記事では東日本大震災について扱います。
地震や津波といった表現に苦しみを抱かれる方もいらっしゃると思いますので、苦しくなられた方は無理に閲覧せず、記事を閉じていただくようお願いします。
また、東日本大震災において亡くなられた皆様に於きまして謹んで哀悼の意を表します。
あの日から13年の月日が経った。私は小学校四年生で、まだまだ幼い人間であり、そして被災地からは遠く離れた東海の地に生きていたにも関わらず、あの日の出来事を鮮明に覚えている。
「宮城で大きな地震がありました」と、下校前に先生は言った。その時連想したのは中越地震のような、大きな揺れと崖崩れを伴う地震だった。
そうか、地震が起きたんだ。私はただ他人事のように地震を捉え、呑気に家に帰りテレビを見てみたらどうだ。海が壁のように、慈悲もなしに車や人、家を飲み込んで全てを奪い去っていったあの日。
人々が数時間前には日常生活を営んでいた街が、瓦礫の山となったあの日。
あの日の自然からの暴力は、私の脳みそにこべりついたまま。東日本大震災は、ある種の呪いなのかもしれない。私はあの日から時が経っているように思えないのだ。
体も大きくなったし、年も重ねたし、あの日よりも社会との繋がり方は大きく変わった。
それなのに、3月11日が来るたびに、私の心はあの日に帰る。ただの10歳児に戻って、歴史の1ページを更新したあの自然への大きさに震える。
時間というのは残酷で、震災を目の当たりにした人々ならば、「もう13年か」と思う人も多いことだろう。
でも、この地震を過去の出来事に過ぎないと、今の子供達は思うのかもしれない。私ですら10歳だったのだから、当時生まれた子はもちろん、当時5〜6歳の子たちでも鮮明に覚えているかも分からない。
私が阪神淡路大震災を知らないように、東日本大震災を知らない子たちがいる。13年というのは、それくらい大きい差ができ始める時期でもある。
私にとってあの日の震災は戦争と同じだった。街がものの数分で消え、東北や関東では停電が起き、街から光が消えた。ライフラインも破綻した。冷たい灰色がその土地に残された。
失った土地でこれからどうする? どう起き上がる? 遠い地に住みながらそんな悔しさと不安に駆られた。
この悲惨さを目の当たりにしていない子たちは、この震災をどう捉えているのだろう。写真には町の残骸や瓦礫が残されても、この目でリアルタイムで見ないのとでは感覚が違うのではないか。
私が阪神淡路大震災時の火事の映像を見ても、ぼんやりと遥か昔の出来事と捉えてしまうように同じく。
大人にとっての十数年は一瞬だけど、子供から見た過去の十数年前は30年も40年も昔のように感じる。自分が生まれるよりも前のことなら尚更。
2024年は能登半島で大きな地震が起きた。それも数千年レベルの大きな地殻変動が伴うような地震だ。
この地震を目の当たりにした今の子供達もいつかは大人になって、能登半島地震から時間が止まったように感じる呪いにかかる子もいるかもしれない。
「ああ、10年も経ったんだ」と時が過ぎる速さに恐れを抱く子も出てくるかもしれない。
地震というのは、人生において分断を生むものなのかもしれない。だからこそ、私たちはあの恐怖が伝わらなくても伝えていかなければならないのだと思う。
きちんと、時計の針と向き合って。14:46のまま止まらないように。
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