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エリートと学歴をめぐって

SNSの功績として挙げられるものの一つに、いわゆるエリートといえども、その人格や腕前はピンからキリまであることを可視化したことにある。

私は長い間、天下の東大を含む大学教員、弁護士、医師、官僚、国会議員等の職務に就いている人間をフォローし、その動向を観察してきた。たしかに、優秀な人材が多士済々、活躍していることは、日本国にとって幸福なことであるけれども、遺憾ながら、エリートたちは無謬ではありえないのが実情である。中には、少数ではあるが、まぐれでその仕事についているのならば、金を返せと言いたくなるような、酷いクオリティの言説しか述べられないような人間も存在する。(ただ偏向しているというだけではなく、論理的な密度が不足しているという意味で)

とくに人文学系の大学教員については、私がその種の勉強をした経験があることから、同族嫌悪ではないが、その思想の偏りがよく見えてしまう。格別、その政治観が概して反権力的で幼稚であることは、彼らは政治学やその実務の専門家でなく、単なる一般人レベルなので問題にするには足りない(しかし、その博覧強記と著作の浩瀚さとの落差に啞然とさせられることがあるのも事実である)。しかし、その専門領域の活動ですら、「このレベルで天下の大学教授を名乗ってよいのであれば、在野にもそれを凌駕する人間は少なからず存在するし、かくいうわたし自身にも研鑽を重ねれば出来るほどである」と思うことも多々ある。

要するに、大学教授は、単なる高等教育の先生である。それより大でも未満でもない。その実態に無知な人だけが、腕前や出自の千差万別さを見ることなく、十把一絡げに大学教授という肩書に幻想を持つのである。

一般論として、冒頭に挙げたエリートと言われる職種の肩書は、純粋な実力によって選抜されたというよりも、むしろいわゆる錯覚資産(社会を渡る上で他人から有利に見られる属性)である。なぜなら、科挙試験の昔から、いかなる種類の試験というものも、箱庭のように規格化された知識やノウハウによって、数々の独創的な人材を取りこぼし、逆に傾向と対策に忠実にすぎない凡人を誤って採用してきたシステムだからである。

しかし、ひとたび競争に打ち勝って選抜されるや、実力のある人材として発言権を認められ、その権利の行使によってますます実力を高めていくという好循環が成り立つが、選抜から外れた人材は、機会を得られないためにその逆になってしまう。その点で、あくまでも出発点はくじ引きの偶然にも等しく、後に開いた結果の格差がその偶然を正当化するに過ぎないからである。

つまり、属する箱(組織)と制服が人間の能力を作るのであって、その逆ではない。したがって、両者によるレバレッジを考えることなく、純然たる個人の能力で勝負しようとするのは、独立しても生き残ることができる強者の論理であって、一般人には酷な結論を招くことになるであろう。

このことを踏まえるならば、まだ何者でもない個人が考えるべきことは、たとえば起業家志望者など、思い立ったその日から誰でも名乗れ、世間から立派に見られるが、実質的なハードルは低い肩書を手に入れることであろう。そのような戦略を練らなければ、大概の人は社会的な逆風の中で委縮してしまうことであろう。

日本の政治でたとえれば、もし政治的な野心を持つ卵がいたならば、選択肢は与党一択であり、決して野党から出馬してはならないということである。なぜなら、一般論として、野党の人間になると、政争のイデオロギーに引きずられてしまい、有能な人材も批判のための批判に堕しがちであるのに対し、逆に与党の人間になると、無能な人間であっても、党組織の力でテコ入れされた結果、それなりのレベルで使える人材になるからである。

もう一つの例を挙げると、フリーランスで独立するタイミングの問題もある。先に述べた組織と制服の力によって、テコ入れをされる経験抜きで、大学生がいきなりフリーランスとして独立することは、売上の実績をすでに出しているなら一考に値するが、一般論としては勧められないであろう。

もはや化石と化した組織の慣行を温存する趣旨ではないが、そうであっても社会人のさまざまな作法を学ぶ機会を得られることは貴重なものである。また、組織の看板の力を借りて、規模の大きなビジネスに参与することができるのは、フリーランスでもベンチャーでもなく、大企業への就職しかない。そこで基礎力とキャリアの箔を付けた段階で、副業に励み、その延長線上でフリーランスとなるのは有力な選択肢であろう。

話を戻せば、エリートの仕事にかぎらず、組織という箱とその制服は、まぐれで入ってきた窓際族を除いて、人間そのものを変える本性を持っているものである。思うに、依存と自立は表裏一体の概念であり、組織のレバレッジを全く使おうとしないのは、単なる孤立にすぎない。

それゆえ、何らかの形で自分自身の成長につながる組織に加入することは、一般論としては必須である。独立のタイミングは、エンジニアで言うところの自走力がきちんと身についてからでも遅くはない。また、入社歴といった一定の肩書を身に着けるのと否とでは、社会的信頼性という点で、人生の難易度が大幅に違ってくるとも考える。

繰り返し述べるように、組織は個人の潜在力を高める性質を持っている。それが個人を基礎単位とした人間集団のシナジーである。一方では、サラリーマンは安定した身分の代わりに、株主や経営者に搾取されているとの考え方も存在する。たしかにそれは正論である。しかし、スキルが獲得されていない時点での、あまりに早すぎる独立は、後々から苦労をしがちなものである。よって、組織の中で実務経験を積むことはあくまでも重要と考える。

原理原則としては、在野の無名の人間であるから劣っているわけでもなければ、有名であるからすぐれているわけでもない。ひとえに問われるべきは、名前ではなく実力であり、誠実に自己研鑽に励んでいるかである。例えば、ルーチンワークにとどまるのではなく、一ヶ月に一回、大きなアクションをしているかが挙げられる。行動を大きく変えなければ、人生も大きく変わらないからである。

今までに、組織対個人、学歴対実績の軸について論じてきたが、さらに一言言うと、いわゆる学歴社会は学歴に対する解像度が低い考え方である。聞いた話によれば、一部の大手企業は、新卒採用に関して、学生を卒業大学ではなく、入学大学(つまり、大学院や編入学卒ではない)でふるい分けするそうである。もしそれが本当であるなら、笑止としか言いようがない。

とくに、ごく若い人は、大学在学中の4年間があれば劇的に変わるものである。それゆえ、18歳時点の学力(実務能力を含まない、単純な記憶力コンテストのスコア)で輪切りにして考えることは、能力主義の軽視と考える。要するに、事実上の身分制道徳の温存にすぎないわけである。

学歴を因数分解すると、それは体系的な知識を理解する能力と、論理的な思考力を、記憶力を通じて測っているものと解することができる。しかし、そのような実力やリテラシーは、まとまった量の論考を書かせてみれば、おおよそすぐに分かることであり、それは必ずしも学歴である必然性はないであろう。ついでに言えば、リテラシーの涵養は、必ずしも学校の勉強である必要はない。どんな主題であっても、24時間365日、その事柄に没頭・熱中すれば、そのような能力は身につくのである。

あまり知られていないことであるが、一部の国内大学院は、高卒であっても、個別審査の枠を設けて社会人入学を認めている。このことは実力本位の考え方にとって象徴的である。

現代社会が身分制道徳を廃止しても、一足飛びに身分の遺制に囚われる精神を廃止することは困難である。このことは、本来の実力を慎重に推し量ることもせず、学歴=学閥という判断軸で軽率に人間の価値を評価しがちな風習があることからも明らかである。

とはいえ、先に述べたように、可能であればそのような箱や制服という名の錯覚資産をある程度構築することは、自分自身の実力そのものではなく、それに社会的影響力を持たせるためには不可欠であろう。終身雇用は終わり、個人の時代が到来したとはいえ、組織の下での実務経験は必要である。その段階を一足飛びに飛ばせるのは一握りの天才だけである。

読書をする引きこもりは、比較的にその状態から抜け出しやすいとの議論を見たことがあるが、それは正論である。人間の頭脳は、読書の質と量によって養われる。そして、現場の実務と読書のバランスによって、総合的に仕事の実力が高まるのである。もう一度学歴を因数分解すれば、それは一定のカリキュラムを消化したことに帰着する。そしてそれは、読書と現場の仕事、ひと言で言えば自己研鑽によって到達可能なのである。それゆえ、学歴は基本的に錯覚資産のみの意味を持っているのである。







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