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読書感想文(ラスト)

※村上春樹さんの、上記の本を読んで思ったこと感じたことを綴っています



どんなに走るスピードが落ちたとしても、歩くわけにはいかない。それがルールだ。もし自分で決めたルールを一度でも破ったら、この先さらにたくさんのルールを破ることになるだろうし、そうなったら、このレースを完走することはおそらく難しくなる。
終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくだけのことで、実際には大した意味はないんだという気がした。生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際立たせる為に、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そんな気がした。
世界が今日直面する大型のトラブルは、多かれ少なかれグローバル・ウォーミングのせいにされる。アパレル産業の売り上げが落ちても、浜辺に大量の流木が打ち上げられても、洪水が起きても、渇水が起きても、消費者物価が上がっても、責任の多くの部分はグローバル。ウォーミングが引き受けることになる。世界が必要としているのは、名指しで「お前のせいだ!」と指を突きつけることのできる特定の悪者なのだ。
苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているという確かな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見出すことができるのだ。生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識にたどり着くこともできる。例えそれが実際、そこに小さな穴の開いた古鍋に水を注いでいるような虚しい所行に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る
結局のところ、僕らにとって最も大事な物事は、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のある物事は往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。例え虚しい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。
個々のタイムも順位も、見かけも、人がどのように評価するかも、全てあくまで副次的なことでしかない。僕のようなランナーにとってまず重要なことは、一つ一つのゴールを自分の足で確実に走り抜けていくことだ。尽くすべきは力は尽くした。当てるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。


これにて本書のピックアップ終わり

◎今日の呟き
日常生活の中で、普段普通にクラスだけでもいろいろなストレスの種があります。大体は人間関係からくるストレスが多いと思いますが、マラソンに例えるならそれが「永続的な辛さ」になるんでしょうか。
走る。息切れする。苦しい。でもゴールまで走らなくては。
ふと思いついたんですが、マラソンと人生の違いに「惰性」でやるのか「自発的に」やるのかというのがありますね。
人生に挑んでいる人であれば、村上さんのように人生に挑戦するイメージでマラソンに打ち込めるかもしれません。そして自己を重ねてマラソンでの達成感をうまくトレースするイメージで成果が仕事にも生きる。
これを読んで、私もマラソンへ興味が出てきました。
ただ、以前の私だったら「ただでさえ普段からストレスだらけでしんどいのになんで走らなきゃ…」となっていたと思います。
生きているということは死というゴールがあるわけで、人生をマラソンのように例えるなら惰性でいやいや生きている人は、最後尾からタイムオーバーをちらつかされてイヤイヤ走ってる人になりますかね。
精神面での健全性を考えても、楽しそうな方はどっちだろう?と考えても自らルールを決めて自分なりに必死に走る方が私は好きですね。
ついつい私は人と比較して焦ったりすることもありますが、生きる距離(走る距離)は人それぞれ。側から見た時、同じ距離を走ってるように見えても個人個人でその距離に対する「えーまだこんなにあるの?」「もうこれだけしかないの?」という感じ方も違います。
隣で走ってる人がどこを見据えているのか。
焦ってその人に合わせてしまい、自分のペースを崩してしまっては元も子もない。あくまで自分のペースで。着実に目標に向かっていく。
いいですね。私にもぴったりの考え方です。
すごく素敵な本でした。

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