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読書感想

※村上春樹著書「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んでの感想


・現在はほぼ毎日のように1週間60キロ、1日10キロで1日休みの日を儲けながらランニングを続けているが、元々好きだったわけではない。小説家デビューしたあと集中力を維持するためにタバコを吸っていたが、健康のためにも「これではいけない」と感じて走り出した。
・学生時代の体育での持久走は強要された運動だから嫌いだった。勉学も同じで、運動と同じように、一応大学は出たが、そもそも人から「さあ、やれ」と言われてやらされることが嫌いである。
・若い頃、奥さんと2人で音楽喫茶を切盛りしていた時と同様に、万人に好かれるのを目指すのではなく、十人に1人がリピーターになってくれれば商売は成り立つ。そのために経営者(小説家)として、明確な姿勢と哲学のようなものを旗印として掲げ、辛抱強く、風雨に耐えて維持していかなくてはならない
・走る練習において、練習量は落とすことがあったとしても「休みは二日続けない」というのが走り込みの機関におけるルール。筋肉は覚えの良い使役動物に似ていて、注意深くだんん快適に負荷をかけていけば、それに耐えられるように自然に適応していく。負荷を何日もかけないでいると限界値を落としていってしまう。筋肉も楽をしたいのだ。
・忙しいからといって走るのをやめたら間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、止めるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは「ほんの少しの理由」を一つ一つ大事に磨き上げることだけだ。暇を見つけてはせっせと組まなく磨き続けること。
・何かを成し遂げるために必要なのは集中力と持続力。集中力があれば才能の不足や偏在をある程度補うことができる。例えば、虫歯があるのなら痛みが気になって何も書けないだろう。それくらいに集中力は大切だ。集中力があっても1日3〜4時間を1週間続けて「疲れました」では長い作品は書けない。少なくとも長編小説を書くことを志す作家にはこれらが求められる。両方のバランスを取ることが大切だ。
・このような能力(集中力と持続力)は才能と違ってトレーニングで後天的に獲得できる。これはジョギングの習慣化とともに、それに耐えうる筋肉を育てていく行為と似ている刺激し、持続する。刺激し持続する。レイモンド・チャンドラーは「たとえ何も書かなくとも1日に何時間かは必ず机の前に座って1人で意識を集中することにしている」と語っているが、彼は小説家にとって必要な筋力を懸命に鍛えていたんだと、私にはわかる。
・僕は自分が今書いている小説が、自分でも好きだ。自分の内から出てくる小説がどんなものになるのか、それが楽しみだからだ
・与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというモノの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ


今日はここまで。

◎今日の呟き
まだ半分しか読んでませんが、本に書いてある内容そのままではなく、共感できたところや気付きを得た部分を抜粋して私なりにまとめてみました。
私としては「生きること」と「走ること」をかけているところにめちゃくちゃ共感しました。
「走ること」について私が同じようにエッセイを書くのなら、基本哲学は「楽をして、かつスマートに、周りに振り回されず、マイペースに生きる」でしょう。
走って下半身や心肺機能を高めることが、脳機能の向上と維持に繋がらないのなら私はまず毎日走ることはありません。
側から見れば、ストイックに見えるかも知れませんが、(会社の人からはストイックだと言われます。)明らかに、以前より色んなことが楽にこなせたり、理解できるようなったという、「体感で得た利益」を継続して享受したいがための習慣です。
言ってみれば私のは利益ありきのランニング。
「楽にスマートに生きたい」が目的の私だから、走る上で目標タイムなんてありません。フォームも「とにかく楽に」を意識してるので村上さんのように筋肉を酷使しようなどとは考えていません。

村上春樹さんのランニングは当初「健康のため」と書かれてますが、基本的に毎日10キロ走り、毎年フルマラソンも走られてます。
「35キロを過ぎると、喉が乾いていても、水は飲みたくても、飲んでしまうと走れなくなるから、飲むわけにはいかず、ガソリンが空っぽの自動車をむりくり走らせてる感覚になる」と、フルマラソンの時もめちゃくちゃ辛いはずなのに、毎年走られてるそうです。
私には村上さんが、その辛さをどこか「楽しめる自分でいたい」という希望と、「辛いけど走りきれた」状況を、「辛いことを楽しめる自分だから、なんだって前向きに乗り切れる」と、身体を酷使して掴み取ることで得られる現実で結び付けて、人生を文字通り「必死で走っている」人のように感じました。

うーん、私の拙い文章力でうまく伝えられているかわかりませんが、意味わからなかったらごめんなさい。
正直うまく書けてるか自信ありません。

哲学的な観点からみれば、村上さんのように実直でストイックではないですし、毎日の走る距離も4キロ程度で短いですが、実は私も毎朝走ることが習慣化されて欠かさないようになれてから、変な自信がつきました。それはやはり「毎朝、自分に勝ててる」という自信のように思います。
人と比べて競い合うのも悪くはありませんが、その場合ライバルの調子に合わせて勝ち負けが決まることもあるので、そうなると「競い合う」ということは、自分の軸がぶれやすい自己育成方法だと思います。

こういう考え方については人それぞれ向き不向きがあると思いますので、私の考え方が万人にとって正しいとはとても思えませんが、実直に自分と向き合って何かしらをひたすら積み上げていくことで、自信がつき、人は自分の未来に希望を抱けるんではないかと思いました。

大袈裟かもしれませんが、走ることは「自分の人生に、考え方に向き合うこと」のようにも思いました。

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