181002_鎌倉うみ

25歳、表現の自由を知る。

なにを書いたって、いいじゃない。
そう思っているはずだし、そう思っていたはずだけど、ふとした瞬間にどこかで誰かがつぶやいていたことが引っ掛かっていることに気がつく。

「自分をネタにするような表現活動はなんか痛々しい」「ナンセンス」
どこかで、そんなようなことが言われていた。

(おそらく)最初はmixiに始まり、TwitterやFacebook、instagram、最近だとティック・トック?いろーんなSNSがあるこのご時世、いろーんなひとが発信をしている。
今日食べたものとか、見に行った映画のこととか。大食らいのひとは、ものすごいフードファイトを動画にしてアップしている。わたしが最近みたのは大量の唐揚げを食べる動画だったけれど、途中からチーズをつけたりチョコフォンデュしたり、、、そっと、チャンネルを閉じた。

わたしが中学生だったときみんな携帯を持っていた。時代はまだガラケー、SNSが台頭するちょっと前の頃で、「前略プロフ」と呼ばれる各人固有のプロフィールページや、「リアル」と呼ばれる一人だけのつぶやきしかみれないTwitterのようなものが流行っていた。
わたしはそんな「前略プロフ」や「リアル」を設けて、その見かけの良さの追求に注力していた。ホームページ作成ようなものである。画像加工の技術やHTMLを勝手にしらべてどんどん自分の納得行くものに近づけてはリニューアルを繰り返していた。(ああ、懐かしい…。誕生日プレゼントといって父親にHTML完全マスター本をねだったっけ…。どんな中学生だよ…。)
もちろん本来の使われ方はそんなページ自体のクオリティを極めていくことではなくて、「前略プロフ」を通じて誰と付き合っているのかをさりげなくアピールしたり、「リアル」に今日などんなことがあったかを書いて翌日それを知る友達同士だけのネタになったりした。

冒頭の、「自分をネタにする表現活動はなんか痛々しい」という発言は最近のTwitterやinstagramなどの様子を野次った発言だった。
たとえば、日常のランチの写真をいい感じにとってアップするなんてことはよく見られるけれど、そんなことしなくてもランチは美味しいし、それで「いいね」が貰えなくてもランチがサエてないってことではない。それよりも、小説を書くとか、詩を書くとか、絵を書くとか…もっとオリジナルな表現活動をしたらいいんじゃないか。
っていうのがざっくりした趣旨だった。

「あーその通りかも。」
そういえば小さい頃、国語の授業をきっかけに詩を書くことにハマっていてキャンパスノート何冊分も書いていたなあ。あの感じで書いてみればできるかな。
多分、感覚的にはリアルやらなんやらのリニューアルを繰り返していたときの没頭感が生まれるような、そんなものを書くことなんだろうな。

ところが全然出てこなかった。
何かひねり出してみようとすればするほど、それこそどっかの誰かの文章が引っ張られてきてしまう。
行き詰まったわたしはせっかく開設したblogのアカウントも放置してしまった。


最近、このnoteを立ち上げた。
また更新しなくなるかなあって思ったけれど、休職して、誰かとつながりたくなって、エイヤで立ち上げてしまった。やっぱり、個性的な文章は降って降りてこなかったけれど、
「わたしはここなら、うつであることを晒せる」
と思って、本当に思いつくこと感じたことを、それこそ日記のように、自分の日常を切り取って、自分をネタにして書き始めた。

大正解。
それでよかったのだ。日記のようなこのnoteも、個性的な文章も、結局「わたし」がネタじゃないか。
わたしが作ったものや書いたことに変わりないじゃないか。
おんなじ内容だって、選ぶ言葉や口調で伝わり方は変わる。写真だって、切り取り方や写真に投げられている眼差しで伝わり方は変わる。
どこが個性的じゃないのか。

もっと自由でいい。
そんなことが本当にようやくわかってきた。
没頭感が生まれたらラッキーくらいで、書きたいときに書いてみたいものを、そこからのスタートでいい。

…でも、オリジナルな詩や小説を書いてみたいという野心は実はまだ残っている。
そんな気持ちをもつことだって、自由だ。たぶん。

この度は読んでくださって、ありがとうございます。 わたしの言葉がどこかにいるあなたへと届いていること、嬉しく思います。