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小さな哲学の芽 育て始め

最近、深い心の底に眠っている書きたいことはたくさんあるのに、文字にしようとするとなぜかすりガラスの向こう側にあるように心の奥底が見えなくなってしまう。

生と死、自分の哲学、生き方、仕事、記憶、失うこと、精神科、家族という繋がり・絆・呪い、友人、過去の思い出、大切なサスケやおじいちゃんおばあちゃんを失くすこと、失くしたものに対する悲しみへの向き合い方がわからないこと、大切なものを失くすことへの大きな恐れ、一人きりで過去を覚えていなくちゃいけない、自分の過去を共有して思い出してくれる人がどんどん減っていくということに対する恐怖、大切な人・いなくなってしまうもの・場所への記憶を記録しておくこと、それに対する粋じゃなさ、というか虚しさみたいなもの、ずっと続く関係なんてないということ、家族でも無条件に愛することはできないのかもしれないという悲しさ

世界を完全なものとして見すぎていたのかもしれないと最近気づく。

完璧な世界がひび割れて崩れ始めた25歳。

年相応になれば「大人」になれると思っていたし、歳を重ねることで人間としての経験・知識を積み重ね深みのある人間になれるのかと思っていたけれど、むしろ10代の自分と比べて知識も情熱も引き潮のように引いてしまっているのではないか。

もう一つ最近気づいたのは、努力し続ける、ということは案外簡単ではないんだなってこと。

高校・大学・大学院と、目の前にわりと分かりやすい目標があったから、そこまで深く悩むことなく自分の人生の「本筋の部分」を決めてきたように思う。今思うとそこまで深い疑問を自分に投げかけないで、スーッと通り過ぎてきたのかな。

でもイギリスに留学して、そのあとコロナで今まで疑わなかったことを疑うようになった。「開発」っていったいどうなん?って思いや、そもそも何かを目指すためにいま頑張る、好きなこと・やりたいことはその「本筋」とは違うから避けたり後回しにして無視するってどうなん?って重いが頭をもたげてきた。これらの疑問のちょうど真ん中の「自分が好きなこと、やりたいこと」「自分がどうやって生きていきたいのか」ってのを考えるようになったのが、働き始めてからの約一年間だったのかもしれない(そう思うと一年遅れて就活みたいなことしてたのかな笑)

やっとこれくらい俯瞰して見れるようになったけど、渦中はしんどかったなあ。

自分はどうやって生きていきたいか、は今もまだ模索中だけど、これをテーマにしてやっぱnote書いていきたい。

「自分探し」なんてものはしなくてもいい。「自分」なんて探しても見つからないんだから。でも自分が生きていく上での指針となるような人やことばの記憶は残しておいても良いんじゃないかって思う。

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