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誕生日の中で誕生日を逸脱する

大学生って、誕生日の祝い方が最も多様化する時代だと思うんです。キラッキラしてるストーリーもあれば、家族とどっかいってるやつ、ホテルで女の子と撮ってるやつ、特に何もあげてないやつもある。誕生日という、1/365のランダムに与えられた日をどう過ごすかって、やっぱりそれが先天的なランダムである以上後天的な性格によって決まってくるのではなかろうか。




先日、誕生日を迎えました。一人暮らしを始めて初めての誕生日で、大学の講義がなかったのも運が良く、珍しく自由な一日を過ごすことができた。昼前に起きて、仲良い人とご飯食べて部活の人たちといつも通りわちゃわちゃする。その節々に「おめでとう」って微笑んでもらうこと以外は本当に何気ない休みと同じ日だった。

面白いことに、らしくない誕生日にどこか不安に感じるかと思えば、一人の移動時間以外ふつうに楽しかったのです。ということで、誕生日はみんなでお祝いして騒ぐもの、何か特別なことをするもの(ケーキとか)、という固定観念がそのリミッターをいくつか解いたように感じました。日常の中に特別感はあるし、特別な日だって日常の連続の中の一部でしかない。自分が偉くなれる特別な日だからこそ、誕生日はこうすべき、とかいう俗物的なものに惑わされるのではなく、自己中心的に過ごせばいいのではないでしょうか。私の場合、よく知る数人との関わりの中で、照れながら言われるおめでとうを照れながら返すのが楽しいと感じていました。私が誕生日に求める特別感とはそれだけであって、あとはどこか特別っぽい違和感を感じながら日常と変わらない一日を過ごすのが好きなんだと思います。

となると、祝う側にとっては非常に難しいですね。大々的なことをしていいのかと、気になるかと思います。個人的に言えばそれもそれで楽しめそうな気がするのが誕生日マジックなのかもしれませんね。とはいえ、流動的な人間関係の中で、かつガキながらも大人びていく絶妙な個人差の中で、懐古的に小さい頃に家族にしてもらったようなことはできなくなるものでしょう。まあ、全員がウェイ達でお互いにそれを認めているなら、彼らが求めるような楽しみ方でお祝いするのでしょうね。毎度言うようにどちらが良い悪いではなく、自己の内側とのギャップをどうすればなくせるのかが、意外と難しいというお話でした。

いわゆる「誕生日」を逸脱して、ただ生年月日の月日が同じであるだけの一日を取り戻すと、そこに自分本来の楽しみ方が見えてくるのではないでしょうか。そして自責論で語るなら、理想の一日に向けて、お祝いして欲しい人に理想のプランを提示してあげるのが良いでしょう。祝われるのを待つのではなく、祝われにいきましょうという、主体性の話で終わる私らしい主張でした。

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