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言葉の節々が気になってしまう、でもそれでいい

言葉、毎日僕たちが使うもの。誰かと繋がるための架け橋。調理することも人を刺すこともできるナイフに例えられるもの。扱う人間の全てが宿るもの。

気付けば何やかんや言葉遣いを気にし続けてきた。と言ってもなんかしてたわけではなく、小学生の時に学んだのと、同じやり方で、こうされたら嫌だからそうしないようにする、という反面教師を見つめていくだけ。
なんか引っかかった言葉があれば、その引っかかったという感情をしばらく見つめてみる。それだけで同じ言葉は使わないようになる気がする。というか、言葉ひとつで自分が嫌になることがある、ということを再度思い出すことができて、気をつけようと思い直せる、というのが近い。
今日は、そんな言葉遣いについて内省してみます。

慣習的な言葉遣いを崩す

慣習的に使う定型文はスルッと耳に入ってくる。逆にそれを崩してやると、一気に耳に残る気がする。自己紹介で「私は〇〇と申します。」より、「〇〇です!」と言った方が、頭に名前が来て印象に残る。自己紹介が始まるな、という空気になった時、相手は無意識のうちに「私は」から始まる定型文を期待している。これも日本語が曖昧であることを活かした面白さの一つである。しかし使い方を誤ると悪い方向にも印象付けてしまうことがある。

「〜でいいです。」

最近僕の耳に残ったこのフレーズ。友人とハンバーグを食べに行って、「ソースはいかがなさいますか?」と聞かれた時のこと。3種類ぐらいあって、少し悩んだ彼は「〇〇ソースでいいです」と答えた。この「で」に妥協的なニュアンスがあるのは全員であってほしいが、彼にはその感覚が欠けているのだろうかと気になった。流石に取り立ててそれを聞くことはしなかったが、少し店員さんに申し訳ないような恥ずかしさを覚えている。
後から考えれば、「〇〇でお願いします」が「〇〇で」に短縮され、彼の使う言葉としては「〇〇でいいです」に変換されてしまったのだろう。飲食店で「〇〇で」と注文するのはあるあるだが、付属する言葉でここまで変わってしまうのかと改めて感じた。

「〜だけどね」「俺は〜だな」一言多いパターン

次は、ちょくちょく一言多い友人の話。飲みの場になるとやはり饒舌になるようで、いつもに増して余計な一言が多かった。この「一言多い」を的確に理解しきれていないが、僕のイメージでは自分語りしたさを抑えきれなかった時に出るもの、だと捉えている。「〜だけどね」とちょっと小馬鹿にしてみたくなったり、「あー、俺は〜だな」と差し込んでみたり。喋りたがりな人によくあることだと思うが、当の本人はそれが一言余分であることに気づいているのだろうか。気づいていないのだろうな、と感じさせられたのは「一言多いなあ」とディスる流れが完全に響いていなかったからである。言葉遣い以外でも厄介に思われることがある彼は、客観性がないからか結構自分勝手な言動でもったいない振る舞いをしている。やはり、この一言で相手がどう思うか、まで気が回らないことの表れなのだろう。

「どうも」ありがとうございます。

最後に味変して定型文を崩してより良くするパターン。バイト先でいつもいう「ありがとうございます」を「どうもありがとうございます」に変えてみたところ、めちゃくちゃ丁寧な感じがして言ってて心地いいことに気づいた。言い慣れてないのもあるだろうが、きっと言われた方も、「ありがとうございます」以上の感謝を感じているのではないだろうか(そうだといいが)。感謝を伝える言葉は、「ありがとうございます」が定型文化しすぎてしまっているため、少し工夫するだけでより印象的な感情を相手に残す音ができるだろう。「いつも」とつければ過去のことを想起させて繋がりを感じられるし、「お忙しい中」とつければ時間を割いて良かったという感情を沸かせられる。ただ単にお礼を言うで終わるのではなく、どういう謝意があるのかを常に自分の中でアンテナを張っておけば、適切な副詞句をつけることができて、より好かれるお礼ができる気がした。

言葉遣いを「磨く」意識

言葉は普段当たり前のように使うものだからこそ、自分の言葉遣いをなかなか顧みることが少ない。容姿に気を使う人が多いように、自分の品性を見出させる「言葉遣い」というものに、少し気を使ってみるのはどうだろうか。堅めの語彙を差し込んでみれば知性が見え、倒置法などのレトリックを用いれば奥ゆかしさが見える。そうして自分が見せたい自分を、そういう服を着たりメイクをしたりするように、言葉遣いにも織り交ぜてあげるとより仕上がるだろう。
それに、一般的にモテるためのメンズメイクが流行ったように、誰にも不快感を与えない言葉遣いができるようになるのも、好かれる努力の一つだと思う。

ここでもやはり客観性が必要である

この話で思い出したのだが、親からのLINEがとても淡白に感じるのも、こちらからのメッセージを受けてトレースする、という発想があまりないからだと思う。特にメールの世界で生きてきた大人たちにとって、LINEを「短くなったメール」だと解釈している人は多い。「顔の見えない会話」だから「!」や絵文字でポップに見せる若者と違って、淡白に見えても気にならないのだろうね。客観的に見ればその温度感の違いに少しはピンとくるものであるはずだが。私の親も昔はちゃんと「。」をつける人だったが、だんだんと絵文字をつけてくれるようになった。最近はスタンプにハマっているらしくて、期間限定の無料スタンプがコロコロ変わるので面白い。

話が逸れたが、言葉遣いを磨くための客観性は、もはやコミュニケーション能力の一つだろう。

まとめ、育ちのいい人の言葉遣いが丁寧である理由

育ちがいい人はよく、言葉遣いが綺麗だと言われるが、理由はやはり言葉遣いを気にしてきた(気にさせられてきた)からだろう。育ちのよさというと抽象的だが、やはり客観性を植え付けられながら丁寧な言葉遣いを浴びて育ってきた子は丁寧な言葉遣いにしかならない。我々のイメージするボンボンは過度に丁寧すぎる言葉を話すが、彼も大学生と関わる中で客観性があれば自然と若者としてのラフな言葉遣いをトレースしていくのだろう。

とはいえ逆に、少し丁寧に話してみるだけで、「育ちのよさ」的な品性を醸し出せる、ということでもある。


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